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解説・報告


 4 狂犬病侵入のリスクとその阻止
 平成17年6月より,イヌ等の輸入検疫制度が大幅に改正された.それまでの狂犬病予防接種済みなどの書類審査と14日以上の係留観察をしていた制度から,マイクロチップなどによる個体識別や複数回のワクチン接種と抗体の証明,さらに6カ月にわたる現地での待機観察を求めるという厳しい制度に変わった.しかし,係留観察を省くために書類の偽造などが行われると,狂犬病に罹患した動物が我が国に侵入する危険性が出て来る.書類の偽造が行われた場合には,15年に1回の確率で我が国に狂犬病が侵入する可能性があると報告されている[2, 5, 6].また,狂犬病流行国であるロシアから北海道に来航する船はイヌを伴っていることがあり,そのようなイヌが不法に埠頭に上陸する場合があることから,監視が行われている.中国から輸入されたコンテナ貨物内に潜入していたネコにより咬傷を受け,暴露後免疫を受けたケースも報告されている[7].本ケースでは幸い加害ネコの感染は否定されたが,アメリカでは狂犬病清浄地域のハワイ州の港へ非清浄地域のカリフォルニア州から搬入されたコンテナ内にコウモリが潜入し,捕獲後に狂犬病に感染していることが明らかとなった事例がある.我が国では海外からコンテナが搬入された場合,一定の基準を満たせば港湾部ではなく注文主がいる地域の保税蔵置場に配送されて開かれるため,コンテナ内に小動物が潜入していても税関で発見されることはない.そのため,港湾部のみではなく,内陸部に直接狂犬病感染動物が侵入するリスクがあることも認識しておく必要がある.本事例はコンテナ輸送に携わる関係者へ狂犬病のリスクを周知することが必要であるとともに,動物の保管や検疫の担当者,さらに農林水産省と厚生労働省の連携やシミュレーションなどの事前準備が極めて重要であることを示している.
 平成20年4月には,我が国同様に狂犬病の発生がないイギリスの動物検疫所で,スリランカからチャリティーのために持ち込まれた子犬が検疫期間中に狂犬病を発症して,輸入者と検疫係官等が咬傷による狂犬病の暴露被害を受けている.係官らは暴露前のワクチン接種を受けていたことから速やかに追加免疫を行い,同時に発症犬と同居していたイヌ等の追跡調査が行われた.フランスでは平成20年に2例,平成16年に4例ものイヌの輸入狂犬病を経験している.いずれも狂犬病の発生しているアフリカからイヌを不法に持ち帰り,帰国後に持ち帰ったイヌが狂犬病を発症して社会不安を引き起こすなど話題となった.いずれも,発症犬との接触が疑われる多くのヒトや動物が暴露後のワクチン接種を受けているが,発症犬を診察した獣医師が狂犬病を疑っていなければ暴露後のワクチン接種が行われず,ヒトで狂犬病が発生していた可能性が考えられる.平成18年11月の2症例は海外で狂犬病に感染し帰国してから発症したもので,日本国内での感染例となると過去50年間発生がない.しかし,世界的に見ればこのような国は極めて稀であり,先進国,途上国を問わず大多数の国々で狂犬病は現在も発生し続けている.近年の国際的流通の増大を考えれば,近い将来,我が国に狂犬病発生国から感染した動物が侵入する可能性や,海外で感染したヒトが帰国後に発症する可能性は否定できない.
 狂犬病の流行には「都市型流行」と「森林型流行」の二つのタイプがある.アジアに広く見られる「都市型流行」では,イヌが主たる感染動物でヒトへの感染例が多く発生する.一方,欧米に見られる「森林型流行」では,主な感染動物はキツネやアライグマなどの野生動物で,ヒトの感染例は少ない.我が国のかつての流行は都市型であり,現在の狂犬病対策もイヌ対策を主眼としたものになっている.しかしながら,このような考え方が全国に当てはまるかについては疑問がある.なぜなら,北海道には本州以南の地域と較べて野生動物が多いという特殊性があるからである.我が国への狂犬病の侵入ルートの一つとして,日本に寄港するロシア船からのイヌの不法上陸が想定されているが,日本を訪れるロシア船の約6割は北海道に寄港している現状にある(平成16年度海上保安統計).万が一,このような感染源から北海道に狂犬病がもたらされた場合,イヌだけでなく野生動物であるキツネにも感染が起こる可能性がある.そして,一旦野生動物の間で狂犬病が流行し始めれば,その排除は非常に困難なものになると考えられる.北海道では,このような事態が起こらぬよう港湾地区で普及啓発活動を行い,万が一狂犬病の疑いのある動物が発見されたときの検査体制も整えているが,それでも狂犬病の侵入を完全に防ぐのは容易なことではないと想定されている.
 近い将来,北海道のキツネが狂犬病に感染する可能性はあるが,それが拡散し,道内のキツネに狂犬病が流行するか否かには,キツネの個体数が重要なファクターとなる.森林型の狂犬病では,感染対象となる動物の密度が低すぎると拡散が起こらず,流行が終息することが知られている.北海道のキツネが狂犬病の流行に必要な高密度状態にあるのか否か,現状では不明である.かつてヨーロッパでは,狂犬病対策の一環としてキツネの生態研究が精力的に進められ,流行拡散のメカニズムの解析や,生態をふまえた野生動物の狂犬病対策が実施されてきた.日本と同様,狂犬病清浄国であるイギリスでは,感染動物が侵入したときに,国内のキツネにどのように狂犬病が拡がっていくかのシミュレーションも行われ,対策が立てられている.我が国では,これまでこのような視点からの研究はほとんど行われていなかったが,北海道のキツネの現状を把握し,野生動物の狂犬病対策を確立することが今後の重要な課題である.
 野生動物はヒトと生活圏が異なり普段の生活で両者が接触する機会は少ないため,一般的に野生動物から直接ヒトが狂犬病に感染するリスクは低い.狂犬病発生地域で感染源となり得る野生動物に対する啓発等が効果的に行われていれば,野生動物から狂犬病に感染することは滅多に起きないと考えられる.実際,野生動物に狂犬病が流行している地域では,ヒトは狂犬病を発症した野生動物に咬まれたイヌ等から咬傷を受けて感染する事例がほとんどである.また,万が一狂犬病ウイルスが我が国に侵入しても,上述のようにイヌを中心とした地域動物の70%に免疫があれば,拡散しないと考えられている.しかし,近年国内のイヌのワクチン接種率は低下し,50%を切ったという報告もある[1-3].集団免疫率を70%以上に維持しておくことが拡散防止のための事前準備として極めて重要であり,そのためには野犬をなくし,飼育犬の登録とワクチン接種率の向上が強く望まれる.

 5 動物由来感染症モデルとしての狂犬病
 狂犬病の世界的な分布と自然宿主域の拡がりを考えると,狂犬病はまだまだ忘れることのできない医学,獣医学領域で重要な動物由来感染症であると言える.将来,我が国で狂犬病という悲惨な感染症が二度と起きないためにも,また,風評被害による不必要な社会的混乱を未然に防ぐためにも,是非とも狂犬病に対する正しい知識と理解の普及が望まれる.
 国内で発生はないがヒトに重篤な健康危害をもたらす動物由来感染症に対して海外からの侵入や発生に備えるためには,(1)国におけるリスク要因の適切かつ継続的な調査と,(2)発生源である近隣諸国との連携による国際的な共同研究によって得られる最新の科学的知見を常に精査し,国民に還元することが重要である.したがって,狂犬病の侵入リスクの低減だけではなく,国内で狂犬病が疑われた,もしくは発生した場合に備えた対策(行政機関における対応マニュアルや検査システム等の事前準備)に加えて,国境を越えた基礎医科学と社会に還元可能な応用科学的研究の並列的推進が重要なキーワードと言えるであろう.
 さらには,狂犬病のみならず,獣医学領域の公衆衛生において近年重要なテーマとして注目されている動物由来感染症が,同時に近年話題となっている新興感染症の多くであることを考えると,社会的にも大きな問題となるヒトの感染症として認知されている重症急性呼吸器症候群(SARS),鳥インフルエンザ(H5N1,H7N7など),エボラ出血熱,マールブルグ病,クリミア・コンゴ出血熱,ハンタウイルス肺症候群,ニパウイルス感染症,古くから知られているが生物テロに使用される懸念から注目される炭疽,ペスト,野兎病,食品を介した腸管出血性大腸菌感染症(O157),E型肝炎,感染症法に基づいて医師・獣医師の届出が義務づけられているツツガムシ病,日本紅斑熱,オウム病,サルの細菌性赤痢,イヌのエキノコックス症などは獣医学領域が社会に寄与すべき重要な研究テーマの一部であると言える.また,忘れてならないのは,動物に接する機会の多い獣医師,輸入動物の検疫官,野生動物等の生態に関する研究者,野生動物の輸入・販売・展示等の取扱業者,野生動物のマーケットや屠場などで働く者,エキゾチックペットの飼育者などは感染する機会の多いリスクグループであることである.
 狂犬病は既にウイルスが同定され,ワクチンも利用可能な動物由来感染症であり,その対策システムは新興感染症に対する対策システムのモデルとして重要な役割を果たすことが期待される.平成18年11月の2例の輸入感染例から,我々は海外で狂犬病に感染したヒトが帰国後に発病する機会が決してゼロでないことを理解した.海外から国内に持ち込まれる,もしくは侵入する全ての哺乳類を把握して適正な管理下に置くことも容易ではない.海外に出かける際には渡航地の事情をよく知って,飼い主の明らかでないペットや野生動物には特に注意して気軽に接触しないことが大切である.また,動物の輸入検疫や輸入動物の届け出制度等による動物由来感染症の侵入リスク低減を効果的に行うためには,市民や動物の輸出入関係者の動物由来感染症に関する正しい理解とリスクに対する啓発も同様に大切である.
 適切な情報提供による市民の狂犬病に対する予防意識の向上については,日常で市民と接する機会の多い獣医師・医師・看護師等の果たす役割はとても大きいと言える.我が国に必要とされる狂犬病対策とは何か,また,疑い例も含めて狂犬病の発生時に求められる適切な対応とは何か,希少な輸入感染症である狂犬病に対して地道な予防対策を進めている公衆衛生の専門家である自治体の関係部局及び担当者(狂犬病予防員,技術補助員など)の役割も極めて大きい.狂犬病に代表される動物由来感染症に関わる学術研究においては,獣医学領域から医学領域に向けて科学的知見の発信を行うと同時に,両領域が歩み寄るかたちでヒトの公衆衛生における感染症研究について,学術的視点から社会貢献が行われることが大いに期待される.また,自治体の危機管理体制の整備には,組織の上層部の認識も重要である.長期戦略を持って動物由来感染症対策の重要性を訴え続けてきた自治体では上層部の理解も得られ,危機管理体制が整備されつつあるが,動物由来感染症の確定検査一つをとって見ても現状では全ての自治体で適切に行える体制にはなっていない.動物由来感染症対策のための教材の開発提供,技術移転など,自治体の危機管理体制の整備には,国,獣医関連団体,日本学術会議等の支援が必要不可欠であると考えられる.
 今日の社会は,多くの重篤な新興感染症の脅威にさらされている.重症急性呼吸器症候群(SARS),高病原性鳥インフルエンザなど,その多くは動物由来感染症であることが想定されており,既に病原体が同定されワクチンも利用可能な狂犬病をモデルとしてその予防,治療,侵入阻止のシステムを構築することは,新興感染症対策の確立にも大きく貢献するものと考えられる.

 6 狂犬病対策に向けた提言
 狂犬病の予防や速やかな治療の実現及び我が国への侵入の阻止のために,以下を提言する.
 (1)厚生労働省及び農林水産省は,国外における発生状況や流行様式の実態を正しく把握し,国民に向けた正しい狂犬病の知識と予防法の普及・啓発を行うとともに,飼育犬に対するワクチン接種率の向上を図る.
 (2)厚生労働省及び地方自治体は,国内で狂犬病が疑われた,もしくは発生した場合に備え,行政機関における対応マニュアルの作成や検査システム,医療用ワクチンの確保等の事前準備の充実を図る.
 (3)動物由来感染症である狂犬病の予防対策には,医学領域と獣医学領域の専門家及び行政の感染症担当者による相互理解と連携が重要であることから,三者を含めた情報交換システムを構築する.
 (4)我が国におけるリスク要因の適切かつ継続的な調査を実施するとともに,発生源であるアジアを中心とする近隣諸国との連携による国際的な狂犬病対策に関する共同研究を推進する.



引 用 文 献
[1] 山田章雄,犬の登録推進のための方策に関する研究.参考1 犬の登録率等に関する研究.平成13年度厚生科学研究:51-55(2002)
[2] 井上 智,平成16年度厚生労働科学特別研究事業「我が国における狂犬病予防対策の有効性評価に関する研究」総括報告書(2005)
[3] 神山恒夫,愛玩動物の衛生管理の徹底に関するガイドライン2006(愛玩動物由来感染症の予防のために).1 愛玩動物飼育状況.平成17年度厚生労働科学研究(新興・再興感染症研究事業):22-25(2006)
[4] WHO expert consultation on rabies : First report. WHO technical report series 931. WHO Geneva (2004)
[5] 井上 智,狂犬病発生時の行政機関対応マニュアル.特集:動物由来ウイルス感染症.日本臨床63:2180-2186(2005)
[6] Satoshi INOUE, The rabies prevention and the risk management in Japan. Journal of Disaster Research 2 : 90-93 (2007)
[7] 高山直秀,佐藤 克,菅沼明彦,中国からのコンテナに潜んでいたネコに咬まれて狂犬病曝露後発病予防を受けた1例.東獣ジャーナル503:16-17(2008)



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