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解説・報告

日本学術会議提言
狂犬病対策システムの構築に向けて

唐木英明 (日本学術会議獣医学分科会委員長)

唐木英明
 日本学術会議は人文社会科学分野の会員が構成する第一部,筆者が部長を務める生命科学分野の第二部,そして理工学分野の第三部から成り,総数210名の会員が所属する国の特別の機関である.日本学術会議の活動を支えるのは約2,000名の連携会員と,全国82万人の科学者・研究者である.日本学術会議の任務の一つが科学技術に関する提言を行うことである.
 このたび,日本学術会議生産農学委員会獣医学分科会が「狂犬病対策システムの構築に向けて」と題する提言を行った.同分科会の委員は下記の通りである.
 委員長:唐木英明(第二部会員),副委員長:土井邦雄(連携会員),幹事:赤堀文昭(連携会員),幹事:西原眞杉(連携会員),委員(以下同):春日文子(第二部会員),林 良博(第二部会員),矢野秀雄(第二部会員),廉澤 剛(連携会員),汾陽光盛(連携会員),喜田 宏(連携会員),佐々木伸雄(連携会員),佐藤れえ子(連携会員),高島郁夫(連携会員),眞鍋 昇(連携会員),森 裕司(連携会員),八神健一(連携会員),山根義久(連携会員),井上 智(特任連携会員).
 ここにその提言を紹介する(提言は日本学術会議ホームページ(http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-t62-3.pdf )および日本獣医師会ホームページ(http://nichiju.lin.go.jp/ekigaku/kohyo-20-t62-3.pdf )に掲載されているので,参照されたい).


提言 狂犬病対策システムの構築に向けて
平成20年(2008年)8月28日
日本学術会議 生産農学委員会獣医学分科会
 1 はじめに
 平成18年(2006)11月に,ヒトの輸入狂犬病が京都と横浜で続けて2例発生し,共に死亡した.これは,昭和45年(1970)にネパールでイヌに咬まれた青年が帰国後に狂犬病を発症して死亡してから実に36年ぶりの症例である.京都と横浜で発生したヒトの狂犬病は,いずれもフィリピン滞在中に狂犬病の飼いイヌに咬まれたことが原因である.咬傷後に暴露後の予防接種が速やかに行われていたならば発症は予防できたものと考えられる.
 上記の3件を除くと,我が国では昭和32年(1957)から国内ではヒトも動物も狂犬病の発生報告はない.1950年に狂犬病予防法が施行されて狂犬病対策が進められ,1957年に日本から狂犬病が一掃されて以降約50年間,国内で狂犬病の発生がないことが,皮肉にも狂犬病は過去の病気と受け止められ,狂犬病の脅威が実感されない状況を生み出している.しかしながら,海外では狂犬病発生国でイヌに咬まれた帰国者,旅行者により海外から持ち込まれたペット,発生国からの輸入動物,検疫されない侵入動物による輸入狂犬病がしばしば報告されている[2, 5, 6].我が国においても,北海道をはじめとする一部の地域では,寄港する外国船舶で飼育されているイヌから我が国のイヌあるいはキツネなどの野生動物への感染が懸念されている.また,海外から搬入されたコンテナ内の潜入動物による感染の可能性も指摘されている.このような狂犬病の脅威や狂犬病対策の必要性は一般にはほとんど理解されていないのが現状であり,国民の狂犬病に対する認識が十分でないことが狂犬病対策を推進する上での大きな障害となっている.
 多くの重篤な新興感染症の脅威にさらされている現在,狂犬病に対する予防対策システムを構築することは,今後の新興感染症対策のモデルとしても極めて重要である.このような認識に基づき,日本学術会議生産農学委員会獣医学分科会では平成19年9月に酪農学園大学,日本獣医学会,日本獣医師会,北海道獣医師会と共催で市民公開講座「どうなる?どうする?北海道で狂犬病が発生したら…(狂犬病の予防は市民とともに)」を開催するとともに,本提言を取りまとめることとした.

 2 狂犬病の現状
 世界では年間5万5千人が狂犬病で死亡しており,その約56%がアジアで,約44%がアフリカである.また,ほとんどが地方都市や辺境地での発生で,2億5千万人が狂犬病ウイルスの感染にさらされ,約800万人が暴露後の予防的ワクチン接種(PEP:postexposure prophylaxis)を受けている[4].欧米の先進国では,ヒトとイヌに対する安全で有効なワクチンの普及により年間のヒト狂犬病発生数は僅かとなっているが,いまだにアジア・アフリカ諸国の流行地域で狂犬病に感染したヒトが帰国後に狂犬病を発症するといった輸入狂犬病がしばしば起きている.
 我が国においても,上記のように平成18年(2006)11月にヒトの輸入狂犬病が2例発生し,治療法のない死の病として大きく新聞でも取り上げられるところとなり,一般市民のみならず,医学・獣医学の現場・専門家・行政の関係機関に大きな衝撃を与えた.国外における発生状況や流行様式の実態を正しく把握して国民に向けた正しい狂犬病の知識と予防法の普及・啓発の継続が行われなければ,我が国でも危機意識の低下によって海外からの狂犬病輸入リスクが高まり狂犬病の患者発生につながることが明らかとなった.実際,毎年1,700万人以上が海外へ渡航しており,世界的に見ても狂犬病のない国は極めて僅かであることを考えると,海外で感染したヒトが帰国後発症する可能性を今後も否定できない.世界中でヒトや物の移動のグローバル化,スピード化が進み,年間20億人が航空機を利用する現代では,国民がこのようなリスクを認識し,共有することが極めて重要である.
 狂犬病は,現在,狂犬病清浄国と呼ばれている日本,シンガポール,ハワイ,太平洋島嶼国,英国,オーストラリアなどのごく限られた国を除くとほとんど世界中で発生が見られ,ヒト狂犬病の99%は狂犬病を発症したイヌによる咬傷が感染の原因であり,その30〜50%が15歳以下の子供である[4].特に,アジアにおける狂犬病の流行がイヌによって維持されていることは,我が国を含めたアジアにおける狂犬病の感染源対策がイヌ中心であることの大きな理由でもある.イヌに次いでヒトに接する機会の多い伴侶動物としてネコがいるが,ネコで狂犬病が維持されているという報告はない.アジア,アフリカ以外の地域ではヒトの狂犬病は少ないものの,北米やヨーロッパ等ではアライグマ,スカンク,キツネ,コウモリ等の野生動物の狂犬病が見られ,南米ではコウモリに狂犬病が認められている.
 狂犬病は発症すると100%死亡する治療法のない死の病であり,ヒトに極めて重篤な健康危害をもたらすため,国内で発生が見られなくとも一旦発生すると大きな社会不安を引き起こす輸入感染症である.このような感染症に備えるためには,必要十分な危機管理とこれを支える最新の科学的知見及び関連する基礎医学的研究が重要であることは言うまでもない.また,同時に狂犬病はヒトを含むほとんどの哺乳類に感染する動物由来感染症(ズーノシス,人獣共通感染症)の一つであり,その予防対策と根絶にはヒト対策とともに感染源である動物の対策が極めて重要であることを,我が国の国民のみならず医師,獣医師,行政の感染症担当者(ヒト及び動物の感染症対策関係者),狂犬病ウイルスの研究者は深く認識すべきである.過去の輸入狂犬病の事例を,関係者は大きな教訓としなければならない.
 平成18年(2006)11月に経験したヒトの輸入狂犬病は,国及び自治体の感染症対策に関わる研究機関等によって粛々と行政対応及び病原体診断等がなされ,大きな混乱を招くことなく事態が収束された.もし仮に,狂犬病を制圧して半世紀が過ぎた我が国でイヌ等に狂犬病が発生した場合はどのような事態が予想されるであろうか.1967年に米国のハワイ州で起きた狂犬病パニックで発生したような大きな社会不安,経済的損失,風評被害による混乱を引き起こすことなく事態を速やかに収束することが可能であろうか.ヒトの公衆衛生における狂犬病を含む動物由来感染症への対応は,医学領域のみでは対応ができない領域であり,獣医学領域を中心としたパラメディカルな領域が感染症対策には重要である.感染症対策の推進には,獣医学の教育と基礎科学を基盤とする関連研究領域のさらなる展開が期待される.

 3 狂犬病の予防と対応
 狂犬病は致死的な脳炎をきたす疾患であり,平均1〜3カ月の潜伏期を経て,全身倦怠感,食欲不振,焦燥感などが発症する.その後,狂犬病に典型的とされる狂水症や,意識障害,痙攣などが現れ,最終的には昏睡状態から死に至る.これまで,狂犬病に対して様々な治療が世界中で試みられてきたが,残念ながら有効な治療法は見出されていない.我が国における平成18年11月の2例の輸入感染例も,救命には至らなかった.有効な治療法がない故に,予防が非常に重要となる.狂犬病流行地域で,狂犬病の可能性がある動物により受傷した時は,咬傷部を十分な流水と石鹸で洗浄し,直ちに医療機関で狂犬病ワクチンを接種しなければならない.狂犬病ワクチンは,通常5〜6回の接種を必要とし,現地で完了できない時は,帰国後に継続して接種する(暴露後免疫).WHOでは,出血を伴う動物咬傷の罹患者に対して狂犬病ワクチンとともに狂犬病用免疫グロブリンの併用が勧められているが,生産量が少ないため使用可能な地域は限られている.また,日本国内では狂犬病用免疫グロブリンは認可されていないため使用できない.動物咬症のリスクが高いと予測される場合は,渡航前に狂犬病ワクチンを接種することが強く勧められる(暴露前免疫).暴露前免疫を行っておくと,狂犬病が疑われるイヌ等の動物から受傷した場合には通常5〜6回行う暴露後免疫と異なり,2回の追加免疫のみによって発症を阻止できる免疫を速やかに誘導することができる.
 世界では,狂犬病が流行していない地域のほうがむしろ稀であるといえる.狂犬病に限らず,海外と日本では流行している疾患が異なる.また,医療の水準や制度も異なる.特に,発展途上国との違いは大きいと言わざるを得ない.渡航者の中には,現地の生活環境や言語について知識を持たず,旅行者保険に入らず,必要な予防接種を受けずに現地の生活に飛び込むヒトもいるが,非常に危険である.渡航前に可能な限り現地の医療情報を収集し,十分にリスクを検討してから日本を出発することが勧められる.海外渡航者の狂犬病への感染予防,咬傷後のワクチン接種による発症防止のため,検疫所においてはホームページ,ポスター,リーフレット等により海外渡航者に対する予防啓発が行われている.
 我が国では,狂犬病の発生予防及びまん延防止のため,狂犬病予防法に基づき,狂犬病の発生がない通常時には飼育犬の登録,狂犬病予防注射,未登録犬等の捕獲抑留,イヌ等の輸出入検疫等の予防措置が講じられており,狂犬病発生時にはイヌの隔離,係留,移動制限等のまん延防止措置が講じられる.
 自治体においては,飼育犬の登録率,予防注射の接種率の向上に向けた,以下のような取組が行われている.
  • 研修会,説明会等による啓発
  • 広報誌,ホームページ等による啓発
  • ハガキによる通知,戸別訪問指導の実施
  • 登録と予防注射の開業獣医師への業務委託
  • 装着しやすい形状の鑑札や注射済票の導入
  • ポスター,リーフレット等の作成,動物病院,動物取扱業者,ペット用品販売店への配布
  • メディア(テレビ,ラジオ,新聞,広報誌)を通じた広報

 しかしながら,万一狂犬病が発生した際には,狂犬病に感受性が高く流行の原因動物となるイヌの管理システムと感染拡大防止の要ともいえる狂犬病予防注射の接種状況が重要となるが,決して十分に対応が準備されているとはいえない.また,危機管理の視点からも,国内で入手可能なヒト用ワクチンの生産量が限られている現状では,発生時における咬傷犬の予防接種有無は,咬傷被害者に対してワクチン接種を行う際の重要な感染リスクの判断材料となり得る.我が国では登録犬の2倍の数のイヌが飼われているとされており,この数字を使えば,予防注射の接種率は50%にも満たなくなり,WHOが勧告している狂犬病の流行を阻止できる接種率70%を大きく下回っていることになる[1-3].狂犬病が発生していない中での啓発活動は困難な面が多く,工夫して行う必要があると考えられるが,逆に発生していないからこそ可能な取組も考えられる.例えば,動物愛護関連のイベント,日本獣医師会が主催する動物感謝デー,WHOが定める世界狂犬病予防デー(9月28日)などを利用し,動物と触れ合う機会を設けるとともに,講習会やポスター,イベントを通じて狂犬病の啓発を行うことは有効な手段であると考えられる.
 国内で狂犬病がイヌなどの飼育動物で発生した場合,第一発見者が飼い主か獣医師になる可能性が高い.そのため,獣医師や飼い主には狂犬病に対する正しい知識を持ち,適切に疑い,速やかに届け出ることが社会から求められている.しかし,狂犬病が我が国から姿を消して50年が過ぎた現在,狂犬病を早期に正しく疑うことが大変困難になっていると言わざるを得ない.万一,狂犬病の疑いのあるイヌが発見された場合には,そのイヌを隔離して経過観察を行い,死亡すればウイルス分離等が試みられ,確定診断が行われる.それと並行して,そのイヌに咬まれるなど狂犬病に感染した可能性のあるヒト,イヌの調査が行われる.獣医師は,診療施設での狂犬病臨床診断と届出業務のほか,こうした行政の施策に協力する義務を負っている.感染症法では,獣医師の責務として,「獣医師その他の獣医療関係者は,感染症の予防に関し国及び地方公共団体が講ずる施策に協力するとともに,その予防に寄与するよう努めなければならない」と明示されている(第五条の二).獣医師がヒトの健康を守る責務についての認識を持つことで,イヌの登録・予防注射の推進のみならず,危機管理体制のメンバーとして狂犬病発生時の対応や,飼い主に対する狂犬病をはじめとした動物由来感染症の啓発などに専門的な立場から積極的に参画することにより,狂犬病対策が格段に広がることが期待される.
 こうした対応は迅速に行う必要があることはもちろん,高度なリスクコミュニケーションが求められることになり,獣医師と行政担当者は緊密に連携してコミュニケーションが取れる体制を平時から構築しておく必要がある.平成13年に厚生労働省で危機管理マニュアル「狂犬病対応ガイドライン2001」が作成され,自治体等に配布されている.自治体の中には地域の危機管理マニュアルを作成し,これに基づきシミュレーション訓練を行うなど積極的な取組も見られるが,多くの自治体ではそのような準備はなされていない.社会全体で狂犬病に対する危機意識が薄れる中,狂犬病が発生した場合の対応に万全の体制が整備されているとは言えないのが現状である.発生時には予め準備されたマニュアルに従って関係者が一丸となって速やかに的確に行動することが,本病制圧への近道であることを個々に自覚する必要があると考えられる.



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