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解説・報告

−海外で活躍する獣医師(VII)−
初  心  を  忘  れ  ず

乗松真理 (Pfizer Animal Health)

乗松真理
 早いもので,日本を離れ,英国に来てから9年が経つ.この間常に獣医学分野に関する仕事に携わってこられたことをありがたく思っている.私の事例が海外で獣医師としての活動を目指す皆さんにとってどのくらい参考になるかわからないが,一例として読んでいただければと思う.
 小さいころは,人の病気を治す医者になりたいと思っていた.ところが,テレビというメディアを通じて海外のいろいろな国・地域に住む人々の生活・文化,特に開発途上国の様子を見聞きし,さらに10代半ばのころ盛んになってきていた文化人類学を始めとする各種人類学の話を読むうち,病気を治すだけでなく,衣食住が満たされ基盤となる地域産業がなければ健康な生活を維持することは難しいのだ,と思うようになった.そんな中,大学への進学を考えるにあたり,病気を治すだけでなく,人間の食と生活を支える畜産に関係する学問として,獣医学に魅力を感じた.動物好きであったこともあろう.大学入学後,専門学部を選択するころには,国際機関や国際協力事業団(当時)の話も見聞きするようになり,このころから将来いつか獣医師として海外で働いてみたいという思いは強くなったように思う.
 動物が好きで「食」を支える農業としての畜産に貢献したい,というのが進学理由であったので,畜産獣医学科進学当初は,漠然と大動物臨床を考えていた.ところが,同じ動物でも医学・製薬の開発に貢献して人の健康を支えている「実験動物」という存在が気になり,その当時学科内で一番若い講座であった実験動物学講座の 土井邦雄先生を訪ね御話を伺った.そのまま実験動物学講座に入室し,その後3年間,学科での獣医学の習得とともに実験動物学講座で疾患モデルについての実験・研究活動を行った.講座では土井先生の方針で卒業までに専門雑誌に一報論文を書くことになっていた.実験の計画,実施,データの解析,学会への発表,論文の作成と投稿,といった一連の作業の経験から,「研究」の面白さを知ることができただけでなく,「研究をまとめる」大切さを学んだ.卒業後,研究の時間が限られた職場で研究を行い,論文を作成することができたのは,このときの経験のおかげだと感謝している.
 獣医学科卒業後の進路を選択するにあたり,将来獣医師として国際協力に関わる仕事や国際機関での活動をしたいという思いは変わらず,学科の先生方や先輩方に相談した.いろいろな選択肢を考えたが,獣医師としての専門性を身につけ,しかも将来国際協力へ関われる可能性も大きいところを,との思いから,農林水産省の獣医職を希望し,採用していただいた.配属先は,動物医薬品検査所であった.
 動物医薬品検査所は,動物用医薬品の開発,製造(輸入),流通及び使用の各段階にわたり,動物用医薬品の品質確保に貢献することを目的とした機関である.動物用医薬品の,検定・検査に伴うさまざまな実験室技術やいわゆる行政科学のあり方を学んだ.私の在職当時,動物用医薬品の承認審査事務に関わる業務は農林水産省本省の薬事室で行われており,薬事室で承認関係の業務にも携わった.また,国際協力事業団の動物用医薬品の検定・検査関連のプロジェクトに絡んだ会議やVICH(International Cooperation on Harmonisation of Technical Requirements for Registration of Veterinary Medicinal Products)などの動物薬事関連の国際会議も経験した.獣医診療は行わないが,獣医師としての専門性を要する仕事であり,畜産,獣医診療,食の安全に貢献する,大変やりがいのある仕事であった.
 一方で,ダイナミックに動く大組織の中で個人としてどのように専門性を磨いていくのか,という漠然とした不安を早い時期から感じていたのも否めない.特に検定・検査を担当する部署では,同じ実験を繰り返すことでややもするとマンネリに陥ってしまう.私自身その閉塞感を感じていたある日,当時別の検査室にいた田村 豊氏(現・酪農学園大学獣医学部教授)に「グラム陰性菌全菌体不活化ワクチンの安全性についての研究プロジェクトに加わらないか」と声をかけていただいた.始めてみると,これがとても面白かった.グラム陰性菌の菌体成分である内毒素に焦点を絞り,内毒素が対象動物(このプロジェクトの場合特にブタ)に及ぼす影響をさまざまな角度から検討した.通常業務の合間をぬっての研究で,時間の制約など苦労もあったが,臨床現場へ直結する具体的な目的(ここではワクチンの安全性)のもと,科学的にひとつのテーマを掘り下げて追求し,それをまとめる作業は新鮮であり,興味深かった.土井邦雄先生のご指導もあり,この研究での論文をいくつかまとめて博士号をいただいた.これに前後して,抗生物質投与によって誘導されるグラム陰性菌からの内毒素放出などについて海外(米国)で研究・研修する機会もいただき,異なる言語,文化の中で研究を行った.初めての海外滞在は,言葉の壁や文化の違いとの戦いだったが,試行錯誤でコミュニケーションのとり方を学ぶことができた.帰国後,元の動物医薬品検査所そして本省の薬事室と,動物薬関連の現場に戻った.薬事室での申請者(企業)とのやり取りは,薬の認可に関わっていることを実感でき,やりがいがあると感じた.
 その後,一身上の都合により農水省を退職し,英国に移ったとき,なんとかして海外でも獣医師としての専門性を生かしたい,と思った.まずは,獣医学研究の経験を深めたい,と思い,Institute for Animal Healthの牛の細胞免疫学のグループで,牛のサルモネラ感染の免疫についての研究プロジェクトに携わった.この研究は主に牛血液由来細胞を用いたin vitroの研究であり,抗原提示細胞の種類によって,あるいは生菌か死菌かによって異なる免疫反応が誘導されることなどを明らかにした.研究所には獣医出身の研究者だけでなく基礎科学(免疫学,微生物学)出身の研究者も多く,いろいろなバックグラウンドの研究者と一緒に家畜の感染症・免疫学に取り組むのは刺激的であった.日本との違いに驚いたことといえば,動物実験に対する規制の厳しさである.Home Office(英国の内務省)が規制当局であり,動物実験の実施には,動物実験そのものに対するライセンス(Project(研究課題) licence)及び実施者に対するライセンス(Personal licence)の両方が必要とされる.Project licenceは実験計画書の審査を受けて認められたものに,Personal licenceは講義,実技とそれに続く試験を受けて合格したものが,関与するプロジェクトに必要な手技を申請して与えられる.さらに,Personal licenceを持っていても,Project licenceに実施者として名前が明記されていなければそのプロジェクトに関する実験は一切行ってはならないし,Personal licenceに明記されていない手技は,たとえ実施者の技術が十分であっても,用いることは許されない.動物福祉を担保するために,動物飼育管理とあわせて,英国の動物実験は本当に厳しく管理されていることを実感した.このプロジェクトで私が必要な技術は牛の頸静脈採血であったが,当然,講習・試験をうけてPersonal licenceを申請・取得しなければならなかった.このサルモネラのプロジェクトは2年程度で論文を2報,口頭発表(選抜)を含めて学会発表を数回など短期間で成果を上げることができた.にも関わらず,プロジェクトの更新はならず終了となり,別のプロジェクトに移らなければならないことになった.海外の研究所で研究を続けるのは大変なことだと実感した.幸い,すぐに次のプロジェクトが見つかった.次のプロジェクトは羊の伝達性海綿状脳症(TSE)の研究であった.一時に1,000頭以上の羊を収容できる専用の動物施設で,PrP遺伝子型の明らかな動物を使ってTSEの感染経路や異なる遺伝子型での感受性の違いなどを明らかにするマルチプロジェクトに参加した.同時進行する複数のプロジェクトの調整,膨大な量のデータやサンプルの管理といったプロジェクト管理も含む獣医色の濃い仕事であった.と同時に,公衆衛生・食品安全上,重要性の高いテーマであった.実は,この間,ボスから英国の獣医師免許取得を検討することを勧められ,要件などを調べたことがある.英国ではRoyal College of Veterinary Surgeons(RCVS)(http://www.rcvs.org.uk )という機関が獣医師免許(登録)を管理している.RCVSの登録会員(Members of RCVS : MRCVS)のみが英国で獣医師として臨床活動を行うことができる.つまり,臨床を行う必要がなければ,一部の例外(実験動物施設の獣医部門の責任者など)を除き,いわゆるDoctor of Veterinary Medicine(DVM)で獣医の肩書きとしては十分だということである.このときの私の仕事も,獣医師免許を保持している必要はなかったが,取れるものなら取るに越したことはないと思い,とりあえず調べてみた.答えは明解であった.日本の獣医卒業証書はMRCVSとなるためのrecognized qualificationとは認められていないので,RCVSが実施する試験を受けなければいけないのである.そこで過去の試験問題を調べてみたが,日本のそれとは(少なくとも私が獣医師国家試験を受験した当時とは)かなり異なっていた.筆記試験は,例えば,ある具体的な症例について,診断と治療方法について記述させるものであり,加えて実地(口頭)試験もある.さらに英語のレベルもチェックされる.試験準備のために「開業獣医師のところで見学研修を行うように」との勧めもある.かなり難しそうだな,と思いながら,まわりの英国の獣医学系大学出身の獣医師(MRCVS)に聞いてみると,やはり「(自分たちは獣医学系大学卒業をもってrecognized qualificationを満たしたとみなされるから受験の必要はなかったけれど)非常に難しい試験という評判だよ」とのことであった.結局英国の獣医師試験にはいまだに挑戦せずじまいである.ただ,英国は,EU圏以外にも米国,カナダなど,一部の国の(一部の大学の)獣医学位(卒業証書)をrecognized qualificationとして認めており,大学での獣医学教育のあり方しだいでは将来日本の獣医学系大学の卒業証書が英国獣医師免許取得の資格として認められる日もくるのかしら,とも思った.TSEプロジェクトの次は,少し間をおいた後(この間,獣・医学系の日英翻訳業に携わった.これは言葉を磨くのに非常にためになった),同じくIAHのワクチン学グループで,牛の呼吸器粘膜免疫の研究プロジェクトに携わった.このプロジェクトでは外来抗原を発現した牛RSウイルスを使って,in vitroin vivoの両方で呼吸器粘膜免疫誘導を調べた.これら3つの感染症・感染免疫の研究プロジェクトを通して,獣医学研究をさまざまな面から経験することができ,研究に対する自分のアプローチ方法にもそれなりの自信をつけることができた.ところが,この牛呼吸器粘膜免疫のプロジェクトも半ばを越えたころ,転居の話がでてきた.IAHでの獣医系の研究活動から離れることは残念に感じつつも,同時に,「現場」が恋しくなってきたころでもあった.幸いにも転居先でグローバル製薬企業であるファイザー(UK)の動物薬事に職を得ることができ,この春以降,EUの生物学的製剤(主にワクチン製剤)の薬事に携わっている.
 動物薬事の仕事は,その昔携わっていたとはいえ,審査手続きや法律・規則の違い,官(申請書を審査する側)と産(申請書を作成する側)の違い,使用言語の違いと,違うことが多く,まだまだ勉強中である.入社してすぐ気づいたのは,英語を母国語としない社員が多く,国際色豊かな職場であるということである.これは,この会社の「多様性を尊重する」方針の現れであると知った.出身国や人種だけでなく,従業員それぞれの個人的な多様性にも理解があり,全体として社員の士気を上げることに成功しているのだとわかった.職務上,EU(正確にはアフリカや中東の一部も含む)の薬事担当,ということで,英語を母国語としない国の現地スタッフや規制当局とのやり取りがとにかく多い.「明瞭・簡潔な英語」を用いることの重要性をますます感じている.同時に,単なる英語力以上のコミュニケーション能力の重要性も痛感している.これは研究機関で研究していたときにも感じたことではあったが,チームワークを要する仕事の場合,人間関係や相手の意見を尊重しつつ,自分の考え・意見も発信しなければならない.これは日本でも同じことであろうが,英国では特に大切なことである.また,さまざまな規則や指針に基づいて業務を行うが,規制当局によって,あるいは規制当局か企業かという立場によって,さらには個人レベルで,文言についての「解釈」が異なることも多々あるようだ.「申請書の作成」以前の部署内,企業間,EU圏の規制当局間との科学に基づく意見交換・意思確認が常に活発に行われている.
 獣医学科を卒業してからの自分を振り返ってみるに,臨床に身をおくことはなかったものの,常に,獣医の観点から獣医療,動物衛生,公衆衛生,食の安全に自分なりに関わってこれたかな,と思う.一カ所に居続けるほうが,継続性があってより多くのことを達成できるのかもしれない,と思うこともあるが,それぞれの場所で一生懸命やってきた上での国内外での幅広い経験は,今後引き続き獣医師として活動していきたいと考えている私自身にとってかけがえのない財産である.当初思い描いていたような途上国での国際協力や国際機関での活動からは遠ざかってしまっているが,その初心は忘れずに,その時々に自分が関わっていることに精一杯取り組むことが大切だ,と思っている.海外での活動を望んでいる獣医師の皆さんには,海外で何がやりたいか,そして,そのためにどうすればいいか,何ができるか,をよく検討して夢を実現させてください,とエールを送りたい.最後になったが,私が獣医師として仕事を続けてこられたのも,大学の先生・先輩・友人達,農水省やIAH,現在の職場での先輩・同僚,その時々に職務上関連のあった方々,そして支えてくれた家族・友人のおかげであり,この場を借りて感謝申し上げたい.

英国Sandwichにあるファイザーグローバル研究開発施設(遠景)

英国Sandwichにあるファイザーグローバル研究開発施設(遠景).
英国では,牛,羊,馬の放牧地が住宅地を含めていたるところに点在している


略歴
 1990年東京大学農学部畜産獣医学科卒業.同年農林水産省入省.1999年同省退職,渡英.1999年から2008年にかけてInstitute for Animal Healthにて牛のサルモネラ感染の免疫(1999年から2002年),羊のTSE(2002年から2004年)及び牛の呼吸器粘膜免疫(2006年から2008年)に関する研究に携わる.2008年5月からPfizer Animal HealthにてEUの動物薬事に従事.




† 連絡責任者: 乗松真理(Pfizer Animal Health)
Pfizer Ltd., Ramsgate Road, Sandwich, Kent CT13 9NJ, UK
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E-mail : mari.norimatsu@pfizer.com