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解説・報告

−海外で活躍する獣医師(VI)−
畜産新技術の開発・実用化と海外技術協力に関わって

下平乙夫 (国際協力機構インドネシア農業省畜産総局畜産開発政策アドバイザー)

下平乙夫
 1 畜産新技術と海外技術協力との出会い
 筆者は1976年に獣医学科を卒業し,大学院で微生物学の研究室に2年間在籍した後,1978年に獣医職として農林省(現農林水産省,以下「農水省」)に採用された.入省後は,畜産局衛生課に配属されたが,獣医職採用者は通常1年間本省勤務後,畜産の現場を経験するためにその当時の種畜牧場(現家畜改良センター)への異動することとなっており,翌年春に北海道の日高種畜牧場に配置換えとなった.
 日高種畜牧場では衛生課に所属した.この牧場は国の乳用牛後代検定事業の娘牛の育成,授精を担当する牧場で,衛生課の仕事は各地から導入された子牛に多発する下痢症,呼吸器疾患の治療が中心であった.学生時代の臨床経験は殆どなく最初は戸惑ったが,慣れてくれば育成牛の衛生管理や診療の仕事は比較的単純で,ルーチン業務だけでは飽き足らなくなった.そこで,当時この牧場で問題となっていた流行性結角膜炎について疫学調査を行うと共に,家畜衛生試験場北海道支場の指導を受けながら,この牧場の症例ではマイコプラズマも関与していることを突き止め,それを学会誌に投稿するなど,日常業務中でも少しでも学究的な活動をして充足感を得ようとした.
 一方,その当時,カナダから帰国された北海道大学の金川弘司教授(現北海道獣医師会顧問)が,北米で商業ベースで取り組まれていた受精卵移植技術を我が国にも紹介し,非外科的手法による採卵,移植技術の開発実用化に関係機関が力を入れるようになっていた.日高種畜牧場は後代検定事業用の育成牛を多数飼養していたので,これらを実験用として利用することにより,他の機関ではできないような大規模な受精卵移植に関する調査研究が可能な体制が整っていた.
 日高種畜牧場でこの技術開発の中心となったのが, 高橋芳幸氏(現北海道大学教授)と鈴木達之氏(前山口大学教授)の二人であった.種畜牧場としても将来の育種改良の仕組みを変革する技術として位置づけ牧場挙げてこの技術開発に取り組んでいたので,筆者は衛生課の所属ではあったが,この技術の開発実用化業務に関わることができた.また,その当時の畜産試験場(現畜産草地研究所)の繁殖部で1カ月間の研修を受ける機会があり,その際にこの技術の研究動向を文献等で調べるなどして,この技術が世界的にも注目され,かつ,まだ,未解決の研究テーマが多く残されていることを知り,この技術の開発実用化業務に専門で携わりたいと考えるようになった.
 本省採用の獣医職は通常は種畜牧場で3年〜4年勤務した後,本省に戻るのがその当時は慣行のようであったが,筆者は上記のような経緯もあり,牧場で受精卵移植の開発実用化に携わりたいと希望していたところ,1982年に福島種畜牧場に受精卵移植を専門とする課(家畜人工妊娠課)が新設され,鈴木達之課長と一緒に日高から福島へ異動した.
 農水省はその年に家畜改良増殖法を改正して,受精卵移植関連の法制度を整備するとともに,この技術の都道府県段階での利用促進を目的とする補助事業を開始していた.福島種畜牧場は,この補助事業の実施主体である各県の畜産試験場や家畜保健所の獣医師を対象とした受精卵移植の研修会を担当することとなり,着任早々その準備に追われた.その当時の長岡正二場長(前家畜改良事業団専務)の「やる気のない態度が見られたものは,即刻研修を中止して県に帰らせる」という厳しい方針の下で研修に取り組んだ.参加した研修生は帰ったら各都道府県の受精卵移植のパイオニアとなるという重責を自覚し真剣そのもので,その技術習得に対する意欲は熱く,休日返上で研修が実施された.
 この研修で筆者はその準備や研修の記録取り等の裏方的な仕事を一切任されたが,特に採卵,移植の実習の際に回収液の量や粘液量,移植器到達部位等を細かな経過を記録させ,その結果を踏まえて次の実習の目標を設定することの重要性に気が付き,その指導を徹底させて実習の質を高めた.この経験は,後年,海外において,受精卵移植や繁殖障害の診断治療など直腸検査を基本とする技術を指導する際に,非常に有益なものとなった.
 一方,福島種畜牧場は,国際協力事業団(現国際協力機構,以下「JICA」)の委託を受けて「牛人工授精技術」の集団コースを実施しており,東南アジアや中南米,アフリカからの研修生が約3カ月間滞在していた.このコースは人工授精技術や後代検定が対象教科であり,筆者の所属していた課が中心となって運営するコースではなかった.しかし,研修生から人工授精技術だけでなく,最近話題となっている受精卵移植技術を教科に加えて欲しいとの要望があり,その講義や実習を鈴木課長と分担して担当することとなった.その時が英語で講義する初めての経験であったが,徹夜で資料の準備をするなどして何とかこなした.拙い英語の講義ではあったが,研修生からは意外と好評で「資料も説明もわかりやすかった.」と言われ,発展途上国の人々に技術を教える面白さに目覚めた.

 2 初めて海外技術協力の現場へ
 以上のような経験から,福島種畜牧場で受精卵移植技術の開発実用化と研修業務に関わりながらも,習得したこの新しい技術を生かして将来は海外技術協力の分野に関わってみたいと云う希望を持つようになった.その当時は畜産関係のプロジェクトの数は少なく,なかなか長期の専門家の派遣機会は与えられなかった.しかし,南米パラグアイの首都であるアスンシオンで実施されていたJICAプロジェクトの短期専門家として1984年11月から3カ月間派遣される機会が得られた.プロジェクトはアスンシオン大学とその隣にある人工授精センターで人工授精と繁殖関技術を指導する活動をしていたが,パラグアイ側から,従来の繁殖技術に加えて最近技術開発の著しい受精卵移植を使った育種改良に関する技術指導についても要請があったことから,短期ではあるが派遣が実現した.
 この専門家派遣が筆者の初めての海外出張であったので,事前に張り切って準備をした.しかし,日本を出発する前に農水省の海外協力担当部局に挨拶に行くと,技術協力に詳しい先輩が「人工授精技術も普及していないような南米で,より高度な技術である受精卵移植が利用できるはずがない.何しに行くのか?」と鋭い質問をされ答えに窮した.日本でもまだ実用的な利用が十分進んでいないこの技術を地球の裏側の南米で技術移転する意義を問われても,技術を教えることだけにしか目を向けていなかった筆者は,その時はまったく答えられず,恥ずかしい思いをしたのを今でも鮮明に覚えている.
 現地に行ってみると,確かに,広大な自然草地で何千頭を1群として放牧されている牛群で人工授精技術を利用しようにも,広い放牧地で発情牛を監視することや授精のために発情牛を集めるのが到底不可能で,その牛群の改良は自然交配に頼らざるを得ないことは実感できた.しかし,一方では,この自然交配用の優良な種雄牛が不足していて更新が進まず,牛群では近交が高まり体格が矮小化するなど改良上大きな問題となっていることが確認された.関係者と議論し,パラグアイでも,日本の種畜牧場の様な公的機関が中心となりステーション方式の受精卵移植で優良種畜を生産し,その種雄牛を自然交配用の牧牛として安価に供給する体制が整えば,この国の肉牛改良が抱える課題を解決できる可能性があるのではないかと考えるに至った.また,日本の受精卵移植では,農家の飼養規模が小さいため優良な受卵牛の選定が難しくこれが低受胎率などの問題を惹起していたが,パラグアイでは受卵牛として利用できる繁殖牛は豊富にいるので,技術さえ伝達できれば日本よりも成功率が高く,安価な自然交配用の優良種畜の増産技術として有効に使える可能があると考えた.
 幸い,パラグアイの国立種畜牧場であるバレリート牧場は,ネローレ種やサンタヘルツゥルディス種の純粋種の育種改良を行うとともに,繁殖用の雑種の雌牛を多数飼養していたので,優良な純粋種の雌牛から採卵した受精卵を雑種の受牛卵牛に移植し,優良種畜を増産し,これを民間牧場に供給することをプロジェクトとして実証することとした.しかし,この牧場は公的機関のためか飼養管理の状態が悪く,また,供卵牛,受卵牛選定のための発情確認も徹底されず,何回かの試行で一応受胎に成功したものの採卵,移植成績は芳しくなかった.
 このプロジェクトの活動にパラグアイでも最も大手の民間のブリーダーも興味を示し,その前の年の共進会でチャンピオンとなったネローレ種の雌牛を供卵牛として提供するので,それを使って受精卵移植による産子の生産を実証して欲しいとの依頼があった.プロジェクトの中で協議した結果,対象が民間のブリーダーであるのは本来好ましくないが,この技術を使った優良種畜の増産を実証するため,敢えてこの牧場と協力して取り組むこととなった.
 このブリーダーは,首都のアスンシオンから700kmほど離れたボリビア国境近くに牧場を持っていたので,そのブリーダーが所有するセスナ機に乗ってその牧場まで移動して採卵移植を行った.途中セスナ機から眺めた熱帯雨林の中に点在する放牧風景は雄大であったが,牧場は当然舗装された滑走路はなく,自然草地が滑走路代わりとなったので離着陸の時は生きた心地がしなかった.しかし,日本では絶対できない経験で,南米のスケールの大きな畜産業を肌で感じることができた.
 この牧場では供卵牛のネローレ種だけでなく,受卵牛とした雑種の繁殖牛も飼養管理がしっかりしていたので,1回の採卵移植しか行わなかったが,去年のチャンピオン牛から採卵した受精卵を雑種の受卵牛に移植して10頭以上の受胎が確認され,満足する結果が得られた.当初は,国立の牧場を拠点にこの技術を応用し優良な種畜を民間牧場へ供給する体制を想定したが,その実証は叶わず,この技術の成功の鍵は,南米においても供卵牛,受卵牛の飼養管理が重要であることが図らずも実証できたことになった.
写真1 パラグアイの民間ブリーダーでの牧場で受精卵移植に参加したカウンターパート及び牧場の職員(右から3番目が筆者)

写真1 パラグアイの民間ブリーダーでの牧場で受精卵移植に参加したカウンターパート及び牧場の職員(右から3番目が筆者)

このプロジェクトの活動を通してパラグアイでも受精卵移植した種畜生産が注目されるようになり,その後,米国資本のET企業であるグラダナジェネティク社がパラグアイを始め南米にも進出して商業ベースの受精卵移植が盛んに行われるようになった.プロジェクトで指導した技術者は,給料の安い国立牧場での活動を嫌い,この会社や民間ブリーダーで活躍したことは想定外であったが,プロジェクトで実証した技術がこの国の育種改良の改善に貢献したのは間違いない.
 こうして3カ月充実した日々を過ごし,もう間もなく帰国という休日にアスシオンにあるこのブリーダーの豪邸に夕食に招待された.その時,牧場主から,アスンシオン大学の学部長並の給料を出すので,パラグアイに残って自分の牧場で働いてくれないかと強い勧誘があった.畜産が主要な産業で獣医師の社会的地位も高いパラグアイで,受精卵移植を使ったダイナミックな仕事はそれなりに魅力があるものではあったが,学部長の給料は日本円に換算してみるとその当時の筆者の給料よりも低かったし,日本に残してきた家族のことも考えて,そこは丁重にお断りをした.



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