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学術・教育

−獣医学学位取得者からのメッセージ(IV)−
博士に病気が治せるか

堀北哲也 (千葉県農業共済組合連合会西部家畜診療所八千代出張所・千葉県獣医師会会員)

 「博士に病気が治せるのか?」という思いがある.学位がどうしたと他人から言われたことはないが,自分の中では時々この言葉が浮かんでくる.臨床の現場で日々直面している問題や疾病,そして生産者への対応,それらを解決する術を「獣医学博士」が持っているとは思えない.学位を取得した今でもこの思いは根強く私の心にある.
 しかし,それでも臨床獣医師が学位を取得することには意味があると思う.この原稿を書くにあたりその意味を整理すると次のような三つの項目となった.
 [1]磨かれるスキル,[2]広がる仕事の可能性,[3]上がるモチベーション
 まずは,「磨かれるスキル」である.学位を取得する過程において,その分野の文献を読み,研究者に出会い,知識を積み上げ,新たな知見を生み出すべく熟慮し,論文を書き,発表し質疑を受けそれに答えていくといった経験を積むことで自らのスキルをアップすることができる.この一連の活動は日々の臨床現場では得られない体験である.論理的に科学的に考える力が鍛えられ,その力はこれから現場で仕事をしていく上で頼もしい武器となる.
 二つ目は「仕事の幅が広がる可能性」である.
 私には二つの夢がある.一つは,いつの日か海外の畜産現場で仕事をするという夢である.その時,日々培っている臨床技術は強力なツールとなるが,それに加えて学位を取得していることで仕事の幅や取り組む分野が広がるのではないかと考える.
 今一つの夢は,獣医師コミュニケーション学講座(仮称)に関するものである.私は全国畜産支援研究会(農場どないすんねん研究会,NDK)なるものに属している.そして,会が主催するメーリングリストに参加している300人の仲間と共に,獣医師と動物の間に必ず存在する人(畜主)とのコミュニケーションについて様々なアプローチを試みている.いつの日か,各地の獣医系大学において獣医コミュニケーション学講座(仮称)が誕生する予感がする.その時,綺羅星のごとくいるNDKの会員たちが,各地の大学で教員となり,現場で磨いたセンスと知見をフルに使って学生たちとこの分野についての研究・教育を進めていくことを夢見る.その夢の実現には学位が必要である.学位によって,各人の夢の可能性が広がることはあっても,学位が夢の邪魔をすることはないと考える.
 三つ目は「モチベーションアップ」である.
 かつて「末は博士か大臣か」と言われていた.母親が学位取得を一番喜んでくれた.学位は外的にはステータスであり,内的には自らを律してくれる心棒である.学位という資格,博士という称号を得たことで背筋が伸びる思いがする.日々の仕事に取り組む一つの大きな原動力となる.
 以上のように学位取得は現場で働く私たちにとっても大いに意味のあることだと思う.しかし,学位を取得するのにはお金も時間も必要であった.その点を具体的に説明したい.
 私は岐阜大学大学院連合獣医学研究科博士課程に1999年に入学した.当時39歳であった.入学試験があり,英語と専門の計2科目及び面接試験が行われた.研究テーマは疫学で,乳牛のアカバネ病のワクチン接種の経済疫学的評価やウメの開花によるアカバネ病の流行予測などを題材とした.連合大学院を構成している東京農工大学で指導を受けた.具体的には現場で収集・分析したデータを同大学の林谷秀樹准教授の指導・助言を受けつつ論文にしていった.テーマに関する論文を3本執筆し,うち1本は英語の学術雑誌に採用されることが学位取得の最低条件であった.4年制であるが,条件が整えば3年でも学位が取得できる.私の場合は,データ収集は早かったのだが分析や論文作成に手間取り,結局6年かかって2005年に学位を取得した.学費は,受験料30,000円,入学金が275,000円,授業料が年間496,800円(当時)であった.6年かかったので合計で約330万円となった.私の場合,大学に赴くことは年に何回もなかったため,仕事との両立は可能であった.このようにお金も時間も要したが,前半で述べたような理由から学位を取得してよかったと感じている.
 かつて職場の上司に「仕事に始末をつけるように」と言われたことがある.始まりがありそして終わりがあってこそ仕事だと理解した.学位取得は,日ごろの仕事の一つの集大成,まとめだと思う.またそれは同時に新たな仕事の始まりでもある.おそらく学生時代にそのまま博士課程に進むよりも,一度社会に出て現場を知り,現場での苦労を持ち帰って学位取得を目指すことの方がはるかに実りが多いと思う.
 研究テーマは現場にある.研究室では見出せないような生々しくて実際的で生産者の利益に直結するようなテーマが現場には山のように埋もれている.それらを掘り起こし,じっくりと見つめ,探求し,まとめていく.このような活動はもうすでに日々の仕事で実際に取り組んでいることでもあると思う.その活動に少しの手間をかけるだけで学位取得につながる.また,このことはとりもなおさず現場の利益にも結びつくのではないだろうか.
 学位で病気は治せない.しかし私は現場で働いている方々にこそ学位取得をお勧めしたい.


† 連絡責任者: 堀北哲也(千葉県農業共済組合連合会西部家畜診療所八千代出張所)
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