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紹 介

軍馬の末路 「動物を戦争で死なせないために」

森 徹士(もり動物クリニック院長・鳥取県獣医師会会員)

先生写真 本誌(第58巻第11号)に投稿した紹介『戦時下,南方の島での軍馬の行く末』を読まれた方から,感想を述べたお便りをいただいた.この方は長野県在住の人で獣医師ではないのだが,近所の知り合いの動物病院の先生を通じて知ったと丁重な手紙が届いた.そういうケースもあるのかと感心すると同時に大変嬉しくもあった.数年前教職員(日本史専攻)を退職され,現在は郷土史家として主に軍馬・馬碑の研究をしておられる.その長年にわたる研鑽の成果である著書を2冊送っていただいた.それには明治期より多くの軍馬を輩出した長野県下における軍馬に関する慰霊碑や記念碑など膨大な写真が掲載されてあり,それと共に趣旨・碑文などの解説が付け加えられていた.サブタイトルとして「動物を戦争で死なせないために」とある.もう一冊には長野県において飼育された馬が如何に徴発され,軍馬になる前後の実際と戦地での活躍と労苦の数々,敗戦後の彼らの末路など具体例を挙げながら記述してある.それは日清日露戦争から大東亜戦争に至るまで,戦地に馬を送り続けた「一地方における貴重な記録」であることにいささか恐縮した.
 平和ボケした小生にとって,人間と動物との関係を考える意味において当初軍馬とはどう位置づければ良いのか随分迷った.例えば家畜・競走馬とも異なるし勿論愛玩動物とも介助犬とも違う.むしろ立場的には警察犬か救助犬に近いのかも知れない.軍部は「活兵器」とも呼称し「活きた武器」として扱っている.これは単なる道具としてではなく,ある意味において人間である兵隊以上に大切に扱われたとも取れる.
 元輜重兵で戦病死した我が祖父の半生を綴った拙著『ハルマヘラの風』の中でも説明したように多くの将兵が飢餓状態にあった.祖父のように栄養状態と並行して病状が悪化して亡くなる兵も相当多かったことは明らかである.そのような中で何故使役に功のない軍馬を食用に供さなかったのかを疑問視した記述をした.実際は密かに食した兵の存在も当時の資料より確認できたのだが,送っていただいた著書を拝読し,軽率な発言をしたものだと改めて反省させられた.生産農家の馬に対する愛情の深さと,戦地で共に戦った仲間である軍馬との別れを悲しんだ兵士の心を知って,心の底から大いに恥じた.
 ここでそのすべてを紹介する訳にはいかないが,その一部だけでも簡略して認めることにする.白馬村の話で,昭和13年とあるから北支事変勃発の翌年である.ある農家の農耕馬に徴用令が届き,「可愛がっていた愛馬を差し出さねばならない無念さに家族皆で泣いた」とある.昭和13年と言えば,この年の5月には国家総動員法が公布されている.人も馬も一切がっさいすべて動員される時代に突入したということで,国民にはある種の「覚悟」を強要させることを意味した.家人は逆らうこともできず,「武運長久」の御守りを鬣に固く結んで門出を祝い送り出したが,溢れる涙は止めどなく流れ馬の目にも涙が光っていたという.後日風の便りで上海のウースン港へ敵前上陸の際,愛馬のいた部隊が全滅したことを知らされた.嘆き悲しんだ家族はせめてもの供養にと馬頭観世音の石塔を建て亡き愛馬を偲んだという.
 昭和20年ビルマ(現在のミャンマー)のアンダマン島において,長く辛かった戦争を乗り切りやっと平和を迎えるという頃,進駐して来た英軍に148頭の軍馬が一斉に銃殺され同時に土中深く埋められた.馬は目隠しをされ穴の前に立たされ,日本兵や住民の懸命な命乞いや必死の懇願にも拘らず,進駐軍は全く耳を貸すことはなく殺戮は遂行された.この一部始終を目撃した日本兵の手記が残っていた.「どんなに悲惨な状況においても黙々と働いてくれた愛馬なのに,何でこのままにして置いてなるものか!……彼らの霊を一日も早く祀らねばならない.馬碑を建立し慰霊しなくて何で戦後は終わりましょうや.……英兵の監視の下,鬣一本さえも持って帰ることができなかった悔しさ哀しさは,他人には到底分かるものではない.……」と,敗残兵の惨めさを切々と訴えかけている.
 他にも埼玉県の元・野砲兵の方からハルマヘラ島の軍馬の末路に関する新たな情報を伝えていただいた.このまま島に居ても餓死か衰弱死は免れないと察した将兵が馬を一頭でも多く助け出そうと,制海権を奪われ米軍の潜水艦がうようよ巡回する魔の海に何度か乗り出したという事実を知らされた.それは3度実行され日時・氏名・目的地まで詳細に教えていただいた.いずれもルソン島・レイテ島などフィリピンに軍馬を送還しようと試みたようである.しかしレイテ島・ミンダナオ島は既に米軍に猛攻を受けていた頃である.殆んど自殺行為に等しいことを判っていながら何故3回にもわたって行われたのかが,どうにも理解できなかった.案の定出帆した輸送船すべてが敵潜水艦に撃沈され将兵・軍馬もろとも皆海の藻屑と化した.このことは敗戦が迫り的確な判断力を失い誤った行為に走った逸話と捉えていたが,ある調査を通じて当時の日本兵の置かれた状況(立場)と心情(気構え)を垣間見ることが叶った.余談だが心理学的には「状況の力」による異常行動という症状があるらしい.しかし果たしてこれが当てはまるか否かは専門家の判断に委ねたい.
 鹿児島の知覧を始め各地から出撃した神風特別攻撃隊や大津島(周南市)で訓練を受けた人間魚雷・回天の実話と同様のことが,ハルマヘラ島でも実在した.北隣のモロタイ島の奪還を目的に米軍基地へ「斬り込み隊」が組織され,軍司令部の無謀な計画の下に約二千名の若い命が散って逝ったのである.つい最近の話だが,当時22歳でモロタイ島にて戦死したという叔父の足跡を探しておられる方の調査を協力して差し上げた.手を尽くし戦没者名簿を探し出し故人の名前を見つけ出すことができた.その上更なる追加調査によって彼の出征から戦死に至るまでの僅か一年と一カ月余りの従軍の行程が如実に浮かび上がってきた.彼は朝鮮半島・中国大陸を経て,仲間を乗せた輸送船が次々と敵潜水艦に撃沈される中,命からがら南方のハルマヘラ島に辿り着いた.そして直ちに斬り込み隊に志願しモロタイ島に渡った.その最も激戦地であったと言われる40高地付近にて,交戦中敵機の投下爆弾にて戦死した事実が明らかとなった.全身爆創を負い殆んど即死状態だったと軍医の診断書が添えられていた.焼骨も十分な埋葬もされないまま,21世紀の今も尚遺骨収集されることなく現地で永眠しておられることは非常に残念と言わざるを得ない.
 昭和20年戦争末期の南方の孤島で悲劇が繰り返された.そんな閉塞され追い詰められた世界の中で,現在の日本人の常識など一切通用しない.何故限りなく不可能に近い軍馬の救済作戦を命がけで行使したのか,斬り込み隊も特攻隊と同様絶望的な状況の中で実行された.決して美談として取り上げるつもりはないが,単にやけっぱちだったとも言いたくない.すべて上官の命令は絶対であり,「状況の力」が働くの中で各自の意思に従って行動したと思われる.しかしながらどういう状況であろうが,とにかく一頭でも馬を救おうと命を賭けた兵たちがそこに居た事実に感銘を受けた.
 本誌に投稿したあの原稿は,昭和51年発行の『ハルマヘラ戦記』という複数の戦友会で構成された記念本の中の一記事「或る陸軍獣医官の記録」から抜粋したものに過ぎない.筆者が御健在であればまだお聞きしたいこともあったし,是非掲載のお知らせをしたいとその所在を調べた.日本獣医師会に問い合わせて現在と過去の記録を辿って登録会員すべてを調査して貰った.当然高齢が予想されるが,何故か故人会員の中にも該当者を見つけ出すことが叶わなかった.もしや戦後獣医師資格を放棄したのか,或いは外国人だったのか,それとも筆者名として記載してあったのはペンネームかもしくは偽名であったのだろうか.「胡桃沢友男」様と「小泉正男」様と仰る方だが,誰かご存知ではあるまいか.
 最後に,木曽福島町の石碑に刻まれてある碑文を紹介したい.「皆均シク心有リ霊有リ人畜何ソ別有ラン……」建立された年は何故か明記されていないが,趣旨には支那事変と書かれてある.戦死した人間と同様に戦争で死んだ動物(馬)の慰霊も当然等しく有るべきだと,この文面から読み取れる.この著書を送って下さった長野県の方の「戦争で死んでいった軍馬を想う心」がより強く深く伝わるのを感じた.過去に多くの若者と軍馬の命が奪われた.その尊い犠牲の下に,我々が今在ることを決して忘れてはならない.
 心に沁み入る著書に触れて敬意と感謝を禁じ得ない.そして間を取り持っていただいた安曇野市の開業獣医師・望月先生にもお礼を述べねばなるまい.

資   料
[1] 寺西憲一:ハルマヘラ モロタイ勤務大隊日記
[2] ガレラ・ハルマヘラ戦記,能島武繁監修(1970)
[3] ハルマヘラ会:ハルマヘラ戦記,ハルマヘラ会発行(1975)
[4] モロタイ戦友会:春島戦記 あゝモロタイ,モロタイ戦友会編纂(1976)
[5] 春島会:飯田隊・ハルマヘラ戦記,春島会編集委員会(1979)
[6] ハルマヘラ日記壕北戦線700日(HP)(2004)
[7] 関口楳邨:動物を戦争で死なせないために,軍馬碑の調査
[8] 関口楳邨:軍馬関係文書資料



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