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紹 介

ジャワ軍政監部ボゴール獣医学研究所について

望月 宏(大阪府立大学名誉教授・大阪府獣医師会会員)

先生写真 時は流れて,第二次世界大戦の記録は現代史から近代史に移行し,多くの史実が敗戦の故に埋もれたまま消えてゆく.散華された多くの友に鎮魂の祈りを捧げつつ,あの限りなく苛烈であった大戦のさなかの,筆者の体験を書き残すべく筆を執った.
 筆者は陸軍技手として,1944年5月3日門司を出港したが,既に1942年5月8日には,長崎県男女群島沖で東南アジア開発の使命をもった優秀な軍属・大手企業社員ら多数を乗せた太洋丸(14,457トン)が米軍潜水艦に撃沈され,日本の南方開発に大きな齟齬をもたらした.817名の遭難死亡者の中には,台湾で大規模な灌漑事業に尽瘁し,台湾で最も愛される日本人と言われた八田與一氏も含まれていた.
 筆者らは11隻の7,000トン級のタンカーに分乗して,蚕棚のような寝床を与えられ,昼は甲板の日陰で仲間と談笑,またマレー語の教本を学んだりした.商船を改装した特設空母1隻をはじめ,駆逐艦・掃海艇,計10隻が船団を囲んで護衛した.しかし既に制海権を失っていた東シナ海・南シナ海を米軍潜水艦に幾度も脅かされ,マニラ入港の直前,コレヒドール島沖で魚雷を受けた後方の2隻は,大きく傾きながら辛うじて航行する始末であった.マニラ港で別れてボルネオのバリクパパンに向かった2隻は,間もなく撃沈されたとの連絡が通信室に入った.シンガポールで2週間船待ちののち,6月5日ジャカルタに到着し,軍政監部所属軍属としての訓練を受け,同11日ボゴール獣医学研究所に着任した.配属された実験室で15名ほどのインドネシア人所員と協力して病性鑑定などの業務に当った.言語・習慣をはじめ万事未経験の事ばかり,着任から敗戦まで僅か14カ月であったが,4年も5年も過ごしたような感がある.
 インドネシア共和国の首都ジャカルタの南約60km,標高290mのボゴール市には広大な植物園(1817年開園)を中心に農業研究センターや農科大学があり,現在も農業関係の研究の中枢をなす.蘭領印度政府は1907年,獣医学研究所と蘭領東印度獣医学校をバイテンゾルフ(現在のボゴール市)に設置し,以後蘭印における獣医学は大いに進歩した.蘭印獣医学校出身のインドネシア人所員も次第に力をつけ,研究所の業務を大いに支えていた.「蘭学事始(1815)」に象徴される如く,オランダは江戸時代の日本の医学・科学の師匠であり,また畜産先進国の実力を反映して,26haの整備された採草地をも有する充実した施設内容は,東洋におけるこの種の研究所として屈指のものであった.
 1942年,第十六軍(軍司令官今村均中将)は旬日の戦闘後3月9日には蘭印軍を降伏させた.同年5月16日,軍馬防疫廠神澤部隊(隊長神澤謙三中佐)が研究所に進駐・接収し,軍政監部への移管まで研究所の業務を支障なく継承した.軍政監部産業部農務課畜産班長兼松満造技師は1943年6月ボゴール獣医学研究所長事務取扱を兼務し,翌年1月,農林省獣疫調査所東北支場長であった柘植一夫司政長官が所長として着任,8人の技師・技手が多数のインドネシア人所員と共に業務を遂行した.本研究所の使命は設立当初より,東印度諸島に常在する家畜伝染病の本態と予防対策の調査研究,並びに免疫血清・ワクチン類(炭疽血清,炭疽苗,出血性敗血症と気腫疽のワクチン・血清),診断液(ツベルクリン,マレイン)の製造配布であり,移管後も当然これらの事業は継承され,民需はもとより南方前線の軍馬の防疫にも協力した.
 軍司令官今村均将軍はジャワの占領政策に対する軍部中央の強い批判に耐えて,融和政策を実施した.獣医学研究所においても日本人,インドネシア人を問わず,所員は力を合わせて使命達成に努力した.業務に熟達したインドネシア人所員が各実験室の主任を務め,日本人所員はその管理に当るとともに,第1実験室の富田四郎技師は南方鼻疽を熱心に研究し,第2実験室の水村恒三技師・瀬下千代松技手は生物製剤の適正な製造を指導し,第3実験室の伊賀順之技手(後に所長補佐)・望月 宏技手は各地からの送付材料の病性鑑定,並びに不明疾患の出張調査などを担当した.
 オランダ統治時代には,インドネシア人は高級所員といえども脆座の姿勢で所長室に出入りさせられたという.まして下級従業員の入室は夢にも及ばず,支配者と被支配者の間には人種差別の極めて高い障壁があった.柘植所長は牧夫頭でさえ気軽に出入りさせ温顔をもって迎えたから,彼等の驚きと喜びは想像以上であった.徳をもって接する所長へのインドネシア人所員の信頼は厚く,大戦末期には資材の欠乏に対処して,現地自活を図るなど,軍政期間を通じて業務は順調に遂行された.
 1945年7月に入ると,従来ジャワ海側からの敵の攻撃が予想されていたのが,加えてインド洋側の防御が必要となった.ボゴール州においても,インド洋岸のシンダンバランから脊梁山脈に入った高地で水源に近い渓谷の断崖に,日本軍人・軍属が立てこもるべき洞窟の建設が始まった.インドネシア人の坑道掘削専門職人数名と200人ほどの一般労務者が作業に従事し,ボゴール州庁の職員と各研究所の所員数名が,当番で監督に当たり,筆者も1週間その任務についた.戦局容易ならざるを感じたが,今にして思えばラバウルの地下要塞等とは比較にもならぬ,正に蟷螂の斧であった.
 敗戦直後,8月17日のスカルノ・ハッタの独立宣言以降,ボゴール市内も所謂ムルデカ(独立)略奪が横行し,街路には隠匿品を奪うべく切り裂かれた枕やマットから出たカポックが散乱するのをよく見かけた.しかし獣医学研究所の秩序は完全に保持され,やがて友好裡にインドネシア人所員に権限は委譲された.非常事態における対処が順調に終了したのは,柘植所長の優れた洞察力と統率に負うところが大であった.筆者と机を並べていた第3実験室の主任ジャエヌディン氏は,温厚篤実な細菌学のエキスパートとして衆望を集め,インドネシア人として初代の所長になった.
 敗戦後間もない頃,副所長格であった富田技師の実験室での服毒自決は悲痛極まる出来事で,責任感強く任務に全力を注がれた同技師の心境を推察して,所員一同言葉もなかった.非常の折とて遺体の処置にさえ困惑したが,茶毘の準備から葬儀万端,インドネシア人所員は手厚く協力し,告別式には全所員が参列して深く弔意を表した.
 異国による統治は,如何なる形に於いても被統治民の不平・不満・反発を招くのは当然であるが,厳しい人種差別・階層社会原理に基づくヨーロッパ型の植民地秩序は,僅か3年半の日本統治で,その意図とは関わりなく根底から破壊された.日本の敗戦により植民地化が容易に再現すると考えたオランダ人は,インドネシア人の変貌に仰天した.日本軍政時に創設,練成された郷土防衛義勇軍(ペタ)を中核とするインドネシア軍の4年に及ぶ激しい独立戦争の結果,遂に1949年12月インドネシアの独立が達成された.
 蘭印獣医学研究所の設立(1907)以来およそ一世紀,その後身であるIndonesian Research Institute for Veterinary Scienceはボゴール市の同じ場所に発展した姿を示している.日本の統治期間は,その歴史の中の僅か3年余のひとこまに過ぎなかったが,その間に獲得したインドネシア人所員の自信が,独立戦争時また独立後の大試練を克服する原動力になったと考えれば,以て瞑すべきか.
 蘭印時代,広大な植物園を中心として農事試験場・林業試験場など多くの農業関係の研究所が設置されていた.軍政時これ等の機関の業務を推持し,さらに発展させるよう,それぞれの分野の権威,中堅,若手の日本人研究者・技術者が多数ボゴール市に集まり,インドネシア人所員と協力して使命達成に努め,南方占領地域にはまれな活気に溢れていた.連合軍の進攻作戦の目標から外れていたため,空襲を受けることもなく,敗戦まで治安は全く良好であった.当時ビルマ,ニューギニア,サイパン,フィリピン,沖縄などの戦線はもとより,本土の多くの都市が激しい空襲に曝され,百万単位の人々が塗炭の苦しみにあったことを思えば,今も心境は複雑である.
 敗戦後,ボゴール市郊外のコタバトゥに我々軍属が自ら設置した収容所に,9月中旬市内の軍属全員が移動した.1週間後,筆者を含む青年10名が先遣としてジャカルタ外港タンジュンプリオクに向かい,以後8月間,英印軍(パキスタンのパンジャブ部隊)の監視下に,荷役作業などの強制労働に服した.インド兵にはインド独立連盟のリーダー,チャンドラ・ボースを讃える者もいて,日本人に対し極めて好意的であった.1946年5月3日,引揚げ船でタンジュンプリオクを出港,ボゴール在勤中毎日見慣れたサラク(2,211m)の秀峰が視界から去ってゆく時,26歳の筆者は己が人生の一区切りが終わった思いであった.
 国際協力事業団派遣専門家として,1980年から4年間スマトラ島タンジュンカランに滞在し,「インドネシア家畜衛生改善計画」の技術指導に多大の貢献を果された石谷類造博士を始め,我が国の多くの研究者・技術者がこの分野で援助協力に努めており,心強いことである.両国の一層の友好親善を願いつつ擱筆する.

付記 :
筆者は伊賀順之と連名で,日本獣医史学会第60回研究発表会(2005年4月23日)にて「望月 宏・伊賀順之:ジャワ軍政監部産業部ボゴール獣医学研究所(1942〜45)について」を発表し,日本獣医史学雑誌第43号(2006年2月発行)に,原著として掲載した.本稿は,日本獣医史学会理事会の許可を得て,この論文の要点をも含めて第二次世界大戦中のボゴール獣医学研究所の状況を記述した.

† 連絡責任者: 望月 宏(大阪府立大学各誉教授)
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