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紹 介

日本住血吸虫病(片山病)の終息と広島県の取り組み
― 白馬・吹雪号の昭和天皇と片山病 ―

橋本秀夫(広島大学名誉教授・広島県獣医師会会員)

1 日本住血吸虫病(片山病)
 広島県では片山病,山梨県では水腫腸満とも呼ばれ,古くから汚染地域の住民に多大な被害をもたらしていた原因不明の風土病は,1904年5月26日,岡山医専の桂田富士郎教授が解剖した猫から発見した住血吸虫が原因と判明し,日本住血吸虫(Schistosoma japonicum)と命名された.それからわずか4日後に,京都大学の藤浪 鑑教授は,病理解剖した片山病の患者から虫体を発見して本症の感染を確認した.
 さらに1913年,九州大学の宮入慶之助教授と鈴木稔助手は流行地のひとつであった佐賀県で,日本住血吸虫の中間宿主である小さな巻き貝(約1cm)を発見した.この巻き貝は発見者にちなんで宮入貝と命名されたが,別名,片山貝とも呼ばれている.
 日本住血吸虫病は,片山貝から出て来た感染仔虫(セルカリア)が遊泳している水中に入ると,皮膚を通して感染する.このように中間宿主の巻き貝が発見され,片山貝の生息する地域の湿地帯で患者が発生する全貌が明らかになってきたことから,やっと各地で対策が進むこととなった.
 なお,日本住血吸虫病は犬や猫を始め,牛や馬にも被害をもたらす人と動物の共通感染症の一つでもある.
 この原因不明の風土病あるいは地方病として長い間,人畜に被害を及ぼしていた日本住血吸虫病の流行地は,次の5地方が中心であった.

  1. 利根川流域(埼玉県,千葉県,茨城県).
  2. 甲府盆地(山梨県).
  3. 富士川流域(静岡県).
  4. 広島県深安郡神辺町を中心とする片山地方.
  5. 筑後川流域(福岡県,佐賀県).

 発生各地では官民が一致して予防,絶滅対策に取り組んだものの,効果は中々あがらなかった.1957年にいたって厚生省は,改正された寄生虫予防法に基づき,日本住血吸虫予防撲滅対策10カ年計画を策定し,水田水路のコンクリート化,殺貝剤の散布,患者の調査と治療などの予防,撲滅対策を強力に推し進めることとなった.
 その結果,広島県では1980年に絶滅が確認されて撲滅組合は解散し,最後まで残っていた山梨県でも1996年に終息宣言を行ったことから,わが国における本病発生の恐れはなくなった.
 日本寄生虫学会では,2004年が本病発見の100周年に当たるのを記念し,発生地の一つの筑後川流域で長年にわたって研究を続けて来た久留米大学において,2003年3月,「日本住血吸虫発見100年 記念国際シンポジウム」を開催した.開催案内のポスターには,周辺に住宅の建ち並ぶ現在の片山の写真が大きく載っている.
 こうしてわが国では日本住血吸虫病の心配はなくなったものの(ただし,片山貝は山梨県の1部にまだ残存する),海外では中国を始め,東南アジア,その他,何千万という人々がいまだに感染の恐怖にさらされている.

 

2 藤井好直医師の片山記
 日本住血吸虫病,別名片山病とも呼ばれている風土病についての最初の学術的な記録が,福山市出身の藤井
好直医師によって著された片山記(1847:弘化4年)である.
 記録の概略は「備後の国,川南村(現在の広島県深安郡神辺町川南)に片山(別名,漆山)という小高い山がある.昔はこの辺は海であった.あるとき漆を積んだ船が大風のため片山の近くで転覆した.そのためか,この辺りの水田地帯に入ると皮膚が漆かぶれのようになり,下痢をして手足がやせ細り,顔色が黄色くなったり,さらに腹が膨れ上がってやがては死んでしまう病気が多発している.人だけではなく,牛も馬も同じように何十頭も死んでいる.何が原因か分からないので,全国の同業の医師に聞いて見たい」というものである.
 それから30年後にふたたび筆をとり,「片山病は依然として発生し,死者が出ているが,いまだに原因は不明である」との付記も残している.

 

3 吉田龍蔵医師の活躍
 片山の周辺では原因不明のまま相変わらず患者が発生していた.神辺町川南に隣接する中津原村(現福山市御幸町中津原)で開業し,多数の片山病患者を診療していた吉田医師は,片山記が記されて60年近くにもなるのに,いまだに原因も治療法も解決されていないことを苦慮していた.自ら多数の患者を解剖して原因の究明をしていた吉田医師は,前述のように京大の藤浪教授に病理解剖を依頼して剖見した結果,ついに1904年,患者の門脈から日本住血吸虫が発見されたものである.

 

4 片山病に対する広島県の取り組みと動物実験
 広島県は1882年(明治15年),「片山病調査委員会」を組織して研究,対策に乗り出したが,そのころはまだ,原因が不明であったため,成果は見られなかった.
 1907年(明治40年),吉田医師を中心に「地方病研究会」が組織され,研究活動が始まった.
 1909年に藤浪教授らは片山の汚染地域で,牛17頭を4グループに分けて感染実験を行い,水中からの経皮感染を証明している.同じ年に桂田教授らも,神辺町に隣接する岡山県高屋町(現井原市高屋町)の汚染地域で,犬と猫を水田に浸漬する実験を行い,経皮感染を確認した.
 1918年(大正7年)になり,それまでの地方病研究会は解散し,新たに有病地区9カ村からなる「広島県地方病撲滅組合」が組織され,生石灰による殺貝事業が開始された.
 戦後の1948年(昭和23年),後述するような理由で「広島県地方病撲滅組合」を「御下問奉答片山病撲滅組合」と改め,また,殺貝剤を生石灰から石灰窒素に変更して駆除を進めた.さらに翌年の1949年には,広島県衛生研究所の支所として,片山病予防研究所と付属診療所が神辺町に設置され,研究調査,予防対策とともに,患者の診療も開始された.
 広島県の終息報告書(1991)によると,集計されるようになった1920〜1988年の患者数の合計は11,784人,1918〜1988年の死者数の合計は415人と記されており,その被害の大きさに驚かざるを得ない.
 また,1971年,牛347頭について行った血清学的検査の結果では,50頭(14.4%)が陽性を示したとある.

 

5 白馬・吹雪号の昭和天皇と片山病
 昭和天皇は相模湾の海洋生物などのご研究でも有名なように,生物学者としても広く知られている.まだ摂政宮時代の1926年5月(大正15年),広島県下をお巡りになった殿下は吉田医師を召されて,片山病研究の労をねぎらわれている.
 1930年11月(昭和5年),神辺町を中心に陸軍特別大演習が行われた.このとき陛下は,福塩線(当時は両備鉄道)の道上駅と万能倉駅の中間地点で下車され,ここから愛馬・吹雪号で数百メートル離れた正戸山まで行き,この山頂から大演習の状況を視察された.片山に近い眼下に広がる一面の水田地帯は,片山病の流行地である.
 正戸山にはこのときの御統監之趾の記念碑があり,さらに現在は地元の福山市御幸町郷土史研究会によって,御召列車の臨時停留所跡,正戸山の中腹で吹雪号から下りて山頂へ向かわれたという,下馬所跡の石碑などが建立されている(写真1,2).
 なお,このときにも陛下に召されてお言葉を賜った吉田医師は,「日本住血吸虫病(片山病)の梗概」と題する冊子を謹呈している.
 戦後,全国を巡幸された天皇は1947年12月(昭和22年),3回目の備後路の旅で神辺小学校を訪れた.このとき,案内役の楠瀬県知事に「その後,片山病はどうなっていますか」と尋ねられて関係者を感激させた.このことから福山市と神辺町では,市議会と町議会の中に御下問奉答特別対策委員会を設置し,県でも翌年「広島県地方病撲滅組合」を「御下問奉答片山病撲滅組合」と改め,一層の防除対策に取り組むこととなった.
 われわれの年代の昭和天皇に対する思い出は,戦後に全国を巡られた人間天皇としてのお姿であり,もう一つは戦時中の白馬・初雪号に跨がった軍服姿の英姿である.この映像が脳裏に焼き付いている.
 生物学の研究に取り組まれていた昭和天皇の遺伝子は,野鳥の研究で山科鳥類研究所に通われている紀宮さまに,しっかりと受け継がれているようである.雅子さまも幼い頃は獣医さんになりたい夢もお在りだったという.犬と戯れる愛子さまを始め,動物を愛される皇室ご一家の姿は微笑ましく,祝福申し上げたい.
写真1
写真1 農場の東北端から約150mの福塩線踏切に建てられた,臨時停留所跡を示す石碑(平成10年建立)
写真2
写真2 正戸山中腹の下馬所跡を示す石碑

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