論 説

獣医系大学における小動物臨床教育を巡る事情

山根義久(東京農工大学農学部教授)
 近年の社会の動きをみていると,人と動物がより身近になってきたという感じがする.いわゆる動物の中でも食の一部を占める産業動物は当然のことながら,立場が違いこそすれコンパニオンアニマルと呼称されるようになった犬や猫等の小動物でも同様である.また,近年では一般的にはめったにお目にかかることのない多くのエキゾチックアニマルも目にすることが多くなってきた.一方,社会においても2002年10月より身体障害者補助犬法(以下「補助犬法」)が施行され,これによって認定証のある補助犬(盲導犬,聴導犬,介助犬)は,公的機関の施設や交通機関を利用することが可能となってきた.本年10月からは,それは民間のベースにまで拡大されホテルやペンション等にも同伴することができるようになる.日本においてはたかだか,900頭前後の補助犬ではあるが,この社会に及ぼす影響は計り知れないものがある.
 一方,小動物臨床においても,国民の意識の高揚,さらに獣医療における診断・治療技術の向上等により,益々充実した高度な医療が求められる時代がやってきた.また,アニマルアシステッドセラピー(動物介在療法)や学校飼育動物の重要性が認識されつつある中において,人と動物の接点は拡大されるとともにより密接になりつつあり,社会生活において動物の重要性は益々増大しつつある.
 以上のような状況の中で,そのような動物達と最も多く接する機会のある小動物臨床に携わる獣医師の先生においては,当然のごとく各種の対応が要求されることになる.
 しかし,需要と供給ではないけれども,現在の社会の小動物臨床に対する要求,いわゆる需要に対して十分な対応いわゆる供給が行われていないのではないかと大いに危惧されるところである.
 昭和58年に学校教育法の一部が改正され,獣医学6年一貫教育がスタートし,平成2年に6年教育の獣医師が社会に輩出された.しかし,日本獣医師会が実施したアンケート調査(6年制獣医師に関するアンケート調査報告書:平成10年5月).(*内容の詳細は,日本獣医師会雑誌52巻7号464頁から469頁参照)によるとどうも4年生教育から6年生教育に変わっても,実質的な充実はいずれの面においてもあまりなされていないのではないかと言わざるを得ない.このアンケートは6年一貫教育を受けた卒業生,学生の教育に携わった大学教官,さらに雇用主の三つの立場より実施されたものであるが,いずれも異口同音に獣医学教育の不十分さを露呈する結果となっている.具体的には特に小動物臨床において実務教育がほとんどなされていないのではないかという結果になっている.たとえば「6年制教育によって得た知識・技術の満足度」の項目における質問の〈あなたが6年制獣医学教育から得た知識・技術は,あなたが就業した事業所に勤務するうえで十分なものと考えますか〉での「動物病院に勤務する獣医師の満足度」は,「全体的に不十分である」と「不十分なものが多い」の合計が70.3%であり,「全体的に十分である」と「十分なものが多い」の合計の12.6%と比較すると不十分な方がきわめて高率である.またこのことは満足度における他の分野の調査(国や都道府県,団体等)に比較しても著しく低く,6年制教育の内容を不十分とする意見が,十分とする意見の約6倍にも達していた.動物病院に勤務している獣医師は,社会の第一線において仕事をしていることからすると評価されやすい.その立場にある獣医師がアンケートのような不安を携えて仕事に従事していることを考えると社会の評価も上昇するわけはない.その結果は明確に次のアンケートである「日本獣医師会による生涯教育の必要性」の〈あなたが就業した事務所で,あなたがした仕事を継続して行うためには,獣医学に関する卒後教育を主体とした日本獣医師会による生涯教育プログラムが必要と考えますか〉の結果に表れている.その中の「動物病院に勤務する獣医師にとっての必要性」を職域別にみてみると「大いに必要である」と「あった方がよい」の合計を比較すると,最も多いのが動物病院の小動物関係に従事する獣医師でその割合は85.4%にも昇る.大学での十分な小動物臨床教育がなされていない結果,このような調査結果になったことは間違いない事実といえる.欧米でも卒後教育の重要性は認識が高く,インターン制やレジデント制の確立はじめ,一般の開業者向けのセミナー等も多く開催されている.大学における十分な臨床教育を受けるシステムにある欧米でもさらに卒後教育は義務化されている.ましてやわが国の大学における実践型教育の不足を考えるときそのギャップの大きさに驚きを感じる.
 このことは事業所(雇用主)へのアンケート「6年制獣医師の知識・技術に対する満足度」の〈あなたの事業所で採用した6年制獣医師の知識・技術は,あなたの事業所の要求をどの程度満たしていますか〉をみても一致するものである.「診療に従事する獣医師に関する満足度」に対して「十分満たしている」と「ある程度満たしている」の合計が63.3%であるのに対し「全然満たしていない」と「満たさない部分が多い」の合計は13.9%であり,程度の差はあれ事業所の要求を満たしていない割合は全業種の中で最高であった.同様に「動物病院に勤務する獣医師の優れている点」の調査では,獣医学的知識(基礎・臨床・応用)60%に対して,獣医学的技術(基礎・臨床・応用)30%と知識より技術の習得が不足していることが判る.いわゆる,このことは実践教育の不十分さを示唆している.
 以上の結果は,教育に従事した教官への「担当科目における6年制発足後の教育内容の充実度」〈あなたが担当する科目では,6年制になってから教育内容の充実が図られていますか〉のアンケート結果の「わずかに図られている」と「まったく図られていない」の合計43.2%に明確に表れているといえる.特に43.2%の内訳をみてみると国公立大学では56.1%,私立大学では22.2%で,国公立大学での充実不足を裏付ける結果となっている.
 以上の結果は,獣医界に身を置くものには大学の内外を問はず,十分に推察されていたことである.
 このアンケートは平成10年5月に公表されたものであるが,その五年後に宮崎大学卒業生で実施されたアンケート結果をみても同様な結果がでている.そのアンケートではきわめて高い回収率であり,卒業生がいかに獣医学教育について真剣かつ熱意を持って解答したかが伺えるものである.
 先ず教育に関する調査結果で「在学中に受けた教育(システム,質,量)についての感想」の中の「獣医学的知識の習得について」をみてみると「かなり不十分」と「不十分」と答えた人は,基礎系21%,臨床系75%,応用系20%であり,きわめて臨床系の知識習得がなされていないかが伺える.また,「獣医学的技術の習得について」のアンケートでは「かなり不十分」と「不十分」と答えた人は,基礎系24%,臨床系79%,応用系29%で,やはり臨床系の技術習得がきわめて悪い結果となっている.
 前アンケートとすべて同一の基準で判断はできないものの,前アンケートの五年後における調査においても獣医学科を卒業した獣医師の意識は,あまり変化していないことになる.
 以上のことは何十年も前から先輩達も気付いており,そのために獣医学教育を4年制から6年制に移行し,さらに現在の獣医学教育改善のための大学再編の運動が生じたように思う.今後,獣医学教育改善がどのような方向に進むにしても,現在有る問題点を改善し,解消するような方向に進めるべきである.
 具体的には現在の獣医学教育の中で社会の小動物臨床に対するニーズに対し不十分である学問分野の再・新構築である.このことは日本獣医師会の中の学術教育研究委員会においても議論が行われ,その報告にも記述してあるように既存の研究分野の充実は当然のこと獣医学教育に必要不可欠である放射線学,歯科学,腫瘍学,臨床病理やさらに動物介在療法,行動学,看護学をはじめとした教育体制の新しい確立が要求される.ただ,大学における獣医学教育で,すべてのあるいはその多くを小動物臨床教官に割当てることは不可能である.全体の教育レベルを充実しながら,割合的に現状で大きく遅れをとっている臨床と公衆衛生面に力を注ぐことがより現実的である.
 たとえば「獣医学教育改善に関する臨時委員会」での答申にある「獣医学教育の改善のための基本方針」の「日本の獣医学教育組織の適正な規模」に記述してある「新教育研究組織の規模は,72名以上の教官から成ることが望ましいが,それがただちに実現できない場合でも,当面これに準ずる規模としては,18名の教官を含む54名程度の教官から成る組織が必要最低限であろう」を基準にして教育組織を考えてみると,当面は以下のような教育組織を目指すのも一案である(表).一方,いかに教育内容を充実しても,法のしばりで解決できないこともある.たとえばポリクリ教育の中での学生の診療行為に対する関与の度合いである.現状では採血をはじめ,注射等の行為は許されていないのである.では動物を用いての実務教育の中で十分に体験させればよいという意見もあるかと思うが,現状では動物愛護の問題があり,いずこの大学も動物を用いての実習では苦労されていると思う.代替実習として,模擬品や肉片を用いての基本的手術操作,さらに最近ではバーチャルリアリティーを用いての仮想的手術操作の訓練も可能になると思う.しかし,いずれにしても臨場感はなく,実物を用いての操作とまったく触感も異なる.結局,法改正か法の拡大解釈によってより実践的な教育が実施できるように対応するしかないのである.さらに充実したカリキュラムの作成に際しては,教育指導できる教員の配置が必要不可欠であり,かつ施設や設備の充実が求められるのは当然である.以上のことをまとめると小動物臨床教育において今後心して実施しなければならないことは
1) 新しい学問分野の構築と既存のものの充実
2) 法の整備による学生の臨床教育の充実
3) 施設,設備の充実
4) 教育体制(教員)の充実
  以上,思いつくままに述べてみたが今後の小動物臨床教育を含めた獣医学教育の充実ためには,従来の小手先の操作ではどうにもならないことは事実である.各大学の事情を越えて日本の獣医学教育をどうするべきかの視点で物事をとらえることが重要と思う.それは各獣医系大学の学長の器量に負うところが大である.

 

表 獣医学教育が目指す教育組織(案)
●基礎獣医学系講座(5教育分野)
解剖学(3),生理学(2),微生物学(2),生化学(1),免疫学(1)
[計9名]
●病態獣医学系講座(4教育分野)
薬理学(2),病理学(2),寄生虫学(2),毒性学(2)
[計8名]
●応用獣医学系講座(7教育分野)
公衆衛生学I(食品衛生,環境衛生学)(3),公衆衛生学II(疫学)(2),家畜衛生学(2),実験動物学(2),感染症学(2),ヒトと動物の関係学(1),動物行動学(2)
[計14名]
●臨床獣医学系講座(10研究分野)
内科学I(神経・内分泌系内科学)(3),内科学II(循環器,消化器系内科学)(3),外科学II(胸部・消化器系外科学)(3),外科学I(神経・運動器系外科学)(3),泌尿・生殖器系学(2),産科学(2),歯科学(1),臨床病理学(2),画像診断学(2),腫瘍学(2)
[計23名]
教育分野26分野
教員54名


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