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一般公開シンポジウム「炭疽の正しい理解のために」を開催


バイオテロリズムの歴史と展望

山 内 一 也(財団法人 日本生物科学研究所 理事)
 米国での炭疽菌事件以来,バイオテロリズムへの関心が高まった.数年前から米国ではバイオテロリズムは起こるかもしれないのではなく,いつどこで起こるかという捉え方で対応を検討してきた.それが現実のものになったわけである.

微生物学の進展と生物兵器開発
  元来,炭疽菌は,牛や羊が持っているもので人類が家畜を飼うようになった1万年以上前から存在していたと考えられている.実際に炭疽菌を分離したのは1876年,ロベルト・コッホである.炭疽菌は世界で初めて分離された細菌であった.すなわち,炭疽菌は微生物学の出発点になった細菌であり,それを契機として,20世紀には微生物学の研究が著しく進展し,その成果として多くの感染症が制圧されてきた.ところが,その影の部分として,生物兵器の開発が1930年代には,すでに始まっていた. 
 その最初は日本であった.1930年代前半に731部隊は生物兵器の開発を始め,炭疽菌や流行性出血熱ウイルスについて人体実験を含む研究を行った.
 英国では1942年から43年にかけて,スコットランドのグリュナード島で炭疽菌爆弾の実験を行った.炭疽菌芽胞は爆弾が炸裂しても死滅することなく,島に放し飼いにされていた羊に致死的感染を起こすことができた.
 米国は,第二次世界大戦終結後,本格的に生物兵器の開発に乗り出し,首都ワシントンの郊外,フォート・デトリックに大規模な生物兵器の研究施設を建設した.その中,8 Ballと呼ばれた巨大な地球儀のような建物では,多数の実験動物,サルだけでも2,000頭以上が炭疽菌爆弾にさらされた.
  米国での細菌兵器開発の最終段階は人体実験で,ユタ州にある陸軍の実験場で,ボランティアの兵士に対して,Q熱病原体の撒布実験が1955年に行われた.
 これらの研究を積み重ねて,米国では1950年代終わりには生物兵器による実戦の準備がすべて整ったといわれていた.ところが,1969年にニクソン大統領は突然,攻撃用生物兵器の開発を中止した.残されたのは防御用生物兵器の研究,すなわち,ワクチンや診断法の開発であった.
 米国の生物兵器研究は意外な副産物を産み出した.危険な病原体による感染から研究者を保護するための,実験室安全対策,すなわち,バイオハザード対策である.現在のレベル4実験室など,危険な病原体を扱うための対策のハード面のほとんどは,フォート・デトリックでの研究で生まれた.

バイオテロリズムの認識
 生物兵器をテロの道具として用いるバイオテロリズムの危険性が提唱されるようになったのは,1990年代半ばからである.湾岸戦争の際にイラクが炭疽菌を詰めた爆弾の使用を計画していたことが,1995年に明らかになった.同年,日本ではオウム真理教によるサリン事件が起きた.オウム真理教の信者がザイールまで出かけてエボラウイルスを入手しようとしていたことも明らかになった.オウム真理教の事件は,バイオテロの可能性はあっても現実には起こらないだろうという,楽観的見方を完全に打ち砕いた.
 一方,旧ソ連の生物兵器開発の責任者が米国に亡命し,彼の証言から,旧ソ連で大規模な生物兵器開発が行われていたことが明らかになった.大量の炭疽菌や天然痘ウイルスが生物兵器として生産され,イラン,イラク,リビア,北朝鮮など数カ国にも流されたと伝えられている.

生物兵器のカテゴリー分類
 生物兵器の特徴は,化学兵器と異なり,見えないこと,匂いもないこと,すぐには発病しないので発見が遅れること,それを撒布する人はワクチンをしていれば安全であり,しかも作るのは容易で費用がかからないことである.
 この事態を深刻に受け止めた米国疾病制圧予防センターは,2000年4月に「生物および化学テロに対する準備と対応に関する勧告」を発表した.その中で生物兵器となる病原体を3種類に分類している.カテゴリーAは,最優先の病原体で国の安全保障に影響を及ぼすもので,天然痘ウイルス,炭疽菌,ペスト菌などが含まれている.カテゴ リーBは第二優先度のもので,Q熱などが含まれている.カテゴリーCは遺伝子操作で作り出される病原体である.
 現在,問題になっている炭疽菌や天然痘は,いわば古典的生物兵器であるが,実際には遺伝子工学技術により,はるかに危険性の高い病原体の開発も可能になっている.近代的生物兵器の問題もありうるわけである.

アグロテロリズム
 生物兵器は人への健康被害を及ぼすものだけではない.家畜,植物などに被害を及ぼすものもある.最も大きな関心が持たれているのは,口蹄疫ウイルスである.人への健康被害はなく,牛へも致死的感染を起こすものではない.しかし,社会,経済に与える影響は英国での最近の口蹄疫の被害で明らかなように膨大なものとなる.家畜の病原体を生物兵器として用いる試みは,第一次世界大戦ですでに行われている.
 口蹄疫,豚コレラなど清浄化が進むほど,アグロテロリズムにとって好適の標的が生まれていることを認識しなければならない.

バイオテロリズム防止のための国の枠組み
 米国では,ウイルス,血清,毒素法という法律により,テロリストが兵器としてウイルスや毒素などを開発したり,所有したりすることは禁止されている.一方,病原体を用いる実験と組み換えDNA実験はいずれも国が作成した指針で規制されている.
 ところが,日本には,病原体の安全管理についての規制は皆無である.厚生労働省の感染症法は病気を対象としたものであって,病原体に対するものではない.
 病原体を用いる実験は,1970年代に,国立予防衛生研究所が作成した自主規制の指針を雛形として,各研究機関が自主的指針を作っているに過ぎない.国が作っているのは組み換えDNA実験指針だけである.バイオテロに対処するためには,国としての病原体の安全管理体制の確立が不可欠である.